予てからジェイドがフォミクリーの被験者を探していることをは知っていた。そして今の自分ではそれを止める術がないことも。だが、目の前に突き付けられた現実は、が想定した以上にきつかった。
「カーティス少尉、これはどういうことですか……?」
 帝国譜術譜業研究院のジェイドの研究室に、の震えた声が響く。何事かとジェイドが彼女に静かに視線を向けると、彼女の手には先程ジェイドが渡した研究の計画書が握られていた。よほど手に力が入っているのか、書類にはしわができている。
「なにか書類に不備でも?」
 計画書には、今度ホド島で行われるフォミクリーの実験についての詳細が記されている。自分が何かミスをしたとは思えないが、何か気付いた点でもあったのだろうか。
「こ、このホドの被験者、まだ十一歳のようですが……」
 ヴァンデスデルカ・ムスト・フェンデ、と書かれた被験者についての書類。そこにはしっかりしていそうだがまだあどけなさの残る顔立ちの少年の写真が添えられている。
「ああ、島の中で一番第七音素の素養があるやつを選ばせたんだ」
 なんだそんなことか、とばかりに視線を外したジェイドをは信じられない気持ちで凝視した。
「彼をフォミクリーの被験者にするつもりなんですか!?」
 初めて顔を合わせた日にやりこめられて以来、眉を寄せつつも素直に実験にジェイドに従っていただったが、今回の件はどうしても見過ごせなかった。
 そんなに、ジェイドは面倒臭そうに溜息を吐く。そして口を開きかけたが、ジェイドが声を発するよりも先に別の人物が口を開いた。
「ねぇ、ちゃんと話聞いてた? ジェイドは今そのために被験者を探させたって言ったよね!?」
 サフィール・ワイヨン・ネイス。ジェイドと共にフォミクリー研究を行っている男である。自称ジェイドの大親友だが、ジェイド本人からその話が出たことはない。彼がジェイドを追って士官学校に入学し、軍に入ったのは一部の人間の間では有名だ。サフィールが影で"金魚のフン"と呼ばれているのをも聞いたことがある。
「サフィールには聞いてない。カーティス少尉!」
 ジェイドがサフィールを邪険に扱うので、もつい彼をぞんざいに扱いがちである。サフィールは「キーッ」と喚いたが、ジェイドももそちらを見てはいなかった。
。僕が顔合わせの日に言った言葉を忘れたか?」
「……!」
 静かなジェイドの声に、ははっとしたように口を引き結ぶ。
「……っ……、〜〜っ! ……も、うし訳、ありません……」
 何度か口を開き、その度に閉じて。湧き上がってくる激情をなんとか飲み込んで、謝罪した。叫びださなかったのが奇跡だ。頭がくらくらする。
 なんということだろう。なんということだろう! 自分と同じ年の子供が目の前にいる男の指示によってフォミクリーの被験者にされようとしている。行われる実験がどれほど惨いものになるのか、には想像もつかなかった。それなのに、今のにはそれを止める手立てがない。それどころか、上に従う事しかできないは立派な共犯者だった。は書類をテーブルの上に置き、顔を両手で覆う。誰かを助けるには、力が足りな過ぎる。絶望で目の前が真っ暗になった。顔から血の気が引いていく。吐き気を覚えて、は手で口元を押えた。
?」
 の様子がおかしいことに気付いたジェイドがに近付き、その顔を覗き込む。ジェイドの目は一瞬だけの真っ白になった顔の色を捉えたが、彼女はすぐに顔逸らしてしまった。
「……す、みませ……ちょっとお手あら……」
 お手洗いに行ってきます。言い切ることなく、パタパタと研究室から出ていく。その場にはジェイドとサフィールだけが残される。
「まったく! なんなんだよあいつ! ジェイドに意見するなんて百万年早いんだよ! ね、ジェイド!」
「…………」
 サフィールはぷりぷりと怒りながらジェイドに同意を求めたが、ジェイドは答えなかった。



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「なるほど。キムラスカはよほど戦争がしたいらしい」
 キムラスカ軍がホド島を侵攻する準備をしている。優秀な諜報部がもたらしたその報告に対して、マルクト帝国の皇帝陛下は不敵に笑って言った。
「キムラスカ軍がホドに侵攻すれば、国内の反戦論者たちも黙ることだろう」
 領土を侵略されて、黙っているわけにもいくまい。それを許せば、キムラスカは味を占め、たちまちマルクト帝国を乗っ取ってしまうだろう。
 には一つ気に掛かることがあった。
「恐れながら、陛下」
「なんだ」
 傍に控えていたが口を開けば、皇帝はそれに耳を傾けた。
「現在ホドはフォミクリー研究の拠点となっております。研究資料がキムラスカの手に渡れば少々厄介かと」
「無論、分かっている。……研究所を取り壊し、すべての資料を持ち出すのにどれくらいかかる?」
 の言葉に皇帝は頷き、問いかける。見た目が幼いだけに侮られがちだが、国の課す正式な試験を通っただけあって彼女の頭脳は優秀であり、皇帝もそれを認めていた。
「最低でも一週間は必要でしょう」
「だろうな……」
 皇帝は顎に手を遣り思案する。そして「」と少女に呼びかけた。「はい」とは静かに返事をする。
「キムラスカ軍諸共、フォミクリー研究の痕跡を消す方法はないか?」
「ホドには一般人も多くおりますゆえ……」
 フォミクリーを知らないはずのキムラスカ軍が初めから研究所だけを襲撃するということはまずありえない。ホド島はそう大きくはない島であり、だとすれば、軍はある程度ばらけて島を制圧する気でいるだろう。島にマルクト軍を投入した場合、島全体が戦場になることは避けられないが、はたして軍は島民たちに味方識別(マーキング)を施すだろうか? 答えは否だろう。味方識別とは、対象者のフォンスロットに特別な認識暗号を打ち込むことで譜術の攻撃対象から外すものである。国民とはいえ、全員が全員国に対して良い感情を持っているわけではない。もしも未来、味方識別島を持っている者に反乱でも起こされたら国は大きな被害を被らずにはいられないだろう。それに、戦場と化す前に島民全員に味方識別を施すことが仮に承認されたとして、それを実行するための時間も人員も圧倒的に足りない。人員はフォミクリー研究の痕跡を抹消するためにも必要なのだ。
「フォミクリー研究の痕跡さえ消せれば多少の犠牲は構わん」
「陛下、それは」
 島民を見捨てるという事ですか? その問い掛けは声にできなかった。声にするのがどれほど愚かなことか、瞬間的には悟っていた。問う必要はない。皇帝は今確かに、島民を犠牲にしてでもフォミクリー研究の痕跡を消せと言ったのだ。
 本当のところを言えば、島民の犠牲を伴って良いというなら、フォミクリー研究の痕跡を消す方法は無いわけではない。しかし、それはあまりに残酷な方法だった。思いついてしまった自分自身の思考を呪いたくなるほどに。
「あるのか無いのか聞いている」
「……わたくしには、思いつきません」
 強い調子で尋ねる皇帝に、頭に思い浮かんだ方法を打ち消してなんとか答える。彼女の出来る最大限の抵抗だった。
 皇帝は難しい顔で唸った。
「ならばカーティスに尋ねろ。あやつなら何か思いつくだろう」
「…………」
 は思わず黙り込む。今頭に浮かんでいるひとつの方法は、フォミクリーの正式な研究者ではないでさえ思いついた方法だ。フォミクリー研究の第一人者であるジェイドが思いつかないはずがない。いや、あれほど賢い頭脳を持っているのならばもっと良い案を考えてくれるかもしれないが……しかし、あの男がはたして合理性より人命を優先するだろうか?
「今日中に策を出せ。よいな」
 沈黙するを、何か考え込んでいるのだろう、と捉えた皇帝はただそう言って念を押した。ここで忠心を疑われない程度には、皇帝にとっては出来た家臣だった。
「……御意」
 今度こそ頷かない訳にはいかない。いや、頷くことしかできなかった。年齢の割に大人びたその思考は、そうすることが最善であると導き出していた。
 そんなに皇帝は満足そうに頷く。
「よし、戦争の準備だ!」
 忠臣の仮面を貼りつけた顔の下で仄暗い気持ちを抱くよそに、マルクト帝国の皇帝は高らかに宣言する。今度は、控えていた軍の高官たちが「はっ」と声をあげた。

 フォミクリー被験者に発生させた擬似超振動によってホドが崩落し海に沈んでいったという報告がの耳に入ったのは、それから数日も経たない日のこと。後に“栄光戦争”と呼ばれる戦いの幕開けだった。



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2014.5.5