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 眼鏡の薄いレンズ越しに、紅い双眸がを見下ろしていた。
「ここは子どもの遊び場じゃないんだけど」
 冷ややかな表情と声で告げられた言葉。普通の子供ならば泣き出してしまうだろう。けれどもはなるべく無邪気に見えるようににぱっと笑ってみせた。
「あっ、陛下から許可を頂いているので大丈夫ですよ!」
 許可も何も、は皇帝の命を受けて今この場にいる。この帝国譜術譜業研究院にも、視察を兼ねた研究助手が遣わされることは伝えられているはずだ。を見下ろしていた男は不機嫌そうに眉を寄せた。
「知ってる。だろ? 史上最年少文官の」
「はい! わたしのことご存じだったんですね、カーティス少尉」
 ジェイド・カーティス、名家カーティス家の養子だ。その譜術の才能が認められてカーティス家に引き取られたらしい。どれほど空気が冷たくなろうと、ジェイドが難しい顔を作ろうと、は笑顔を崩さなかった。
「……キミ、本当に役人試験に受かったの?」
「そうですけど」
「へらへら笑ってるけど、僕が嫌味を言ってるんだって分からない? それともただ勉強ができるだけのお子様なの?」
 嫌味を言われたのだということくらいも分かっている。なぜならジェイドはがこの国のれっきとした役人だと知っていながら冒頭のセリフを吐いたことを自ら明らかにしたからだ。分からない方がおかしい。
「勉強ができるだけのお子様なんです」
 けれど、だからこそは穏やかに言葉を返した。もちろん、本当に勉強ができるだけのお子様ならばここでこのような返事はしないだろう。
「……ふぅん、思ったより馬鹿ではなさそうだね」
 当たり前だ。周りよりも抜きん出て優秀でなければ、のような子どもは役人として採用してもらえなかっただろう。あなたの方は思ったよりバカそうですね、という言葉を“馬鹿ではない”は飲み込んだ。先程ジェイドが自身で言っていたように、“勉強ができるだけ”の人間を頭の良い人間だとは認めない。この男は世渡りが下手すぎる。いくら才能があっても、これでは損をすることもあるだろう。
「お褒めいただき光栄です」
 は幼い顔に微笑みを浮かべる。うすら寒いやりとりだった。
「……まぁいい。研究を手伝いに来たんだろう?」
 いつまでもこのようなやり取りをしていても時間の無駄だと気付いたのだろう。話の流れを変えるようにジェイドが言う。こういう潔さは好ましい。は頷いた。
「はい。微力ながらお手伝いさせていただきます」
「本当に微力だったら帰ってもらうから」
 にこりともせず言い切るジェイドに、使えない子どものフリして帰っちゃおうかなぁとは一瞬本気で考えた。



「つまり、被験体に異物を注入し音素を乖離しやすくした上で、そこから音素情報だけを抜くということですか。それ、危険じゃないんですか? 被験体にはなんの影響もないんですか?」
 一通りフォミクリー研究について説明を受けたは難しい表情でジェイドに尋ねた。熱湯を注ぎこんで溶かしてしまったチョコレートは、ろ過しても、火にかけて練っても、冷凍庫で冷やしても元のチョコレートには戻らないのに。
「確かに、被験体が音素乖離を起こしてだめになることもある。それは今後解決すべき課題だ」
 だめになることもあるって、そんなあっさりと。は眉を寄せる。そうして再び首を傾げた。
「出来上がったレプリカにしても構成要素は第七音素だけなんですよね? 物体として安定してるとは言い難いと思いますが」
 本来、この世界に存在するすべての物は第一音素から第六音素が結合することによって存在している。そしてこの結合パターンの違いによって個別差や個体差が確立されているのだ。それなのに、はたして第七音素だけで物体は物体としての機能を保てるのだろうか。
「キミの言う通り、現段階でレプリカは構成音素の欠損を免れない。それゆえ、複製された生体レプリカは精神崩壊を起こすという問題点がある」
 ジェイドの説明を頭の中で噛み砕いて理解した瞬間、はぞっとした。
「……この技術、人間に使うおつもりなんですか?」
 困惑する表情を隠さないまま、はジェイドを見上げた。
「なにか問題でも?」
 なんでもないことのように答えたジェイドに、は一瞬言葉を失う。フォミクリー技術を人間に対して使うことについて、目の前の男がなんの問題も感じていないという事実に、は恐怖さえ感じた。
「恐れながら、人間に対して使うのはいかがなものかと」
 顔を青くさせながら、けれどもははっきりとした口調で言う。被験者が危険すぎるし、倫理的にも問題である。
「技術ならばこれから改善していくし、倫理なんて戦時下にはあってないようなものだろ」
「それは……」
 まるでの思考を読んだかのようにジェイドが言った。ジェイドの言っていることは一見正しいようだが、けれど根本的に間違っているとは思う。ただ、それを言葉にして説明する術をは持たなかった。それはこの感覚が論理で語ることのできるものではなく、本来ならば人間が成長する過程で自然と身に付くものだからである。天才過ぎるが故に、彼にはそれを身につける機会がなかったのかもしれない。そして、ジェイドのようなタイプの人間は一度痛い目でもみないと改心しないだろう。そう気付いて、は頭を抱えたくなった。
「それに、僕は皇帝陛下の命を受けてこの研究に取り組んでいるんだ。君に口を出す権利があるとでも?」
「…………」
 確かに、ジェイドの言う通りである。は女で、子供であるけれど、それ以前にこのマルクト帝国の文官だ。皇帝から研究院の視察と研究助手としての命を受けている以上はそれには逆らえないし、研究を止める権利もない。マルクト帝国の役人になる、とはそういうことなのだ。
「……いいえ。出過ぎたことを言って申し訳ありませんでした」
 現時点では、の主張は正当性を持たない。それに気付いてしまえば、はただ頭を下げるしかなかった。ふん、とジェイドが鼻を鳴らした。これだから女子供は、といったところだろうか。居たたまれなさに俯く。もう来なくても良いと言われるのではないかとは身構えたが、ジェイドはそうしなかった。
「……分かったならさっそく手伝ってもらおうか。やらなきゃいけないことが山ほどあるんだ」
「! はい!」
 ジェイドの意外な言葉に、はぱっと顔を上げる。一瞬前までしゅんとしていた少女が、落ち込んでいたことなど忘れたかのように顔を輝かせているのを見て、ジェイドは思わずため息を吐いた。まったくよく変わる表情だ。良くも悪くも子供である。 
「考え方の相違はともかく、キミは自分の非を受け入れられる人間のようだし、頭も悪くない。今日初めてフォミクリーを知ったにしては、着眼点もいい」
 実際、フォミクリーについての説明を聞いてすぐに技術的な問題点に気付ける人間は素人にはそういるものではないだろう。無論自分よりは劣るが、なるほど史上最年少で帝国の役人になれただけはある。それがジェイドからへの率直な評価だった。
「お褒めにあずかり光栄です!」
 その日初めての心からの笑顔をは浮かべた。褒められるのは純粋に嬉しい。ましてや天才と名高いジェイド・カーティスからの褒め言葉だ。ジェイドも言っていたように、自分たちの考え方には相違がある。けれど、彼は思ったよりいい人なのかもしれない。……この考えが間違っていたことをはすぐに知ることになるわけだが、何も知らない今はただ笑っていられた。
 今はまだ権力に屈することしかできないけれど、は諦めたりなんかしない。は同世代の誰よりも政治を動かす現場の近くにいるのだ。が諦めたら他に誰が成し遂げるというのだろう。少しずつ、少しずつ、変えていけるように努力をしよう。彼のことも、世の中のことも……きっと、変えられる。



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2013.1.21