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 言葉を自由に操れるようになるのも、文字を覚えるのも、は他の子たちよりもずっとずっと早かった。あの子は天才だから、という人々の言葉。文字を覚えるのには少しだけ努力を要したけれど、生まれながらに多くの言葉を知っていたからすれば首を傾げざるをえない評価だった。この子は将来は博士か大臣かしら、微笑みを浮かべる両親。思うところはあったが父と母にほめられるのは純粋に嬉しかったし、もっともっとがんばろうと思えた。
 には、幼い頃から抱いていた違和感がある。ひとつひとつは些細なことだけれど、抱く違和感の数は多かった。それはたとえば1年が765日もあることであったり、世界に国がふたつしかないことであったり、小さなグミひとつで体力が回復することであったり。
 そんな中、自分の思考がおかしいとがはっきり気付いたのは5歳の誕生日だった。「そろそろ預言を読んでもらいにいくから準備してね」という父親の言葉に、ああ毎年恒例の占いみたいなやつね、あれよく当たるよね、なんて考えてからはっとした。……占い? 占いって……なんだっけ? いや、占いは占いでしょ。自分の名前や生年月日、手相から恋愛運とか仕事運とか金運とかをみてもらう……って……あれ……? ぱちぱちと目を瞬いて、はなにとなしに自分の手の平を見つめた。これが頭脳線でー、これが生命線でー……うわっ、生命線短っ! いやいやいや、生命線で重要なのは長さじゃなくて反り具合だっていうし……! ……って……んん……? 自分は今、なにについて考えているのだろう。は首を傾げた。占い? 預言? 預言はどうしてこんなにもよく当たるのだろう? ……いや、預言は当たるんじゃない。たちは、預言の通りに生きなければならないのだ。
(どうして?)
 どうして、占いのいうとおりになんて生きなきゃいけないの? 自分の心に問いかけて、はっとした。占いは自分の未来の可能性を知って、より幸福を手に入れるための努力や危険を回避するためのものだ。だって、変えられない運命が待っているのならば、占ってもらう必要なんてない。心の準備? いいことも悪いことも先に知ってしまって、人生は楽しい? ただ決められた台本をを演じるだけのような人生が、本当に楽しいのだろうか。
 そこまで考えて、はぶるりと身を振るわせた。おかしい、こんなの普通の5歳の思考じゃない。普通の5歳といったら、幼稚園で歌ったり踊ったり、園内を走り回ったり、泥団子作ってピカピカに磨いたり……。そもそも、こんなの普通の5歳じゃない、っていう思考自体もなんかおかしい。どうして自分はこんなことを考えているのだろう? ここはどこ? わたしは誰? ……ここはオールドランドのマルクト帝国で、わたしはだ。なんの問題もないはずなのに、どうしてこんなに不安な気分になるのだろう。しばらくが自問自答していると、その思考を中断させる声があった。
ー、そろそろいくわよー?」
 家の玄関から、母がを呼ぶ。
「はぁーい」
 すこし長く考え込んでしまったようだ。あらかじめハンカチと3粒のアップルグミを入れておいた小さな肩掛け鞄を頭と腕に通して、は鏡の前に立つ。母親譲りの透き通った緑色の瞳に、父親譲りのやわらかい黒髪。漆黒と呼ぶにはいささか色素の薄い髪の毛先は、肩よりやや短い位置でふわりと揺れている。今日のためにと母親が作ってくれたワンピースは瞳の色に合わせた緑色で、とても春めかしい色だった。
「ん。ばっちり!」
 最後に鏡の前でにこりと微笑んで、は父と母の待つ玄関に向かった。



。今年1年の預言を授ける」

 告げられた内容には目を見開く。同席した両親たちも驚いた表情をしたが、すぐにその表情は輝いたものに変化した。それは、がマルクト帝国の役人になるべく、今年から勉強を始めるという内容だった。「ああ、やっぱりこの子は将来大臣になるのね」と頬を上気させる母に「うちのはかわいいし頭もいいし出世間違いなしだな」と笑う父。手を取り合ってふたりははしゃぐ。勉強を始めるだけで役人になると決まったわけではないのに、両親はが役人採用試験に合格することをまるで疑っていないようだった。はなんとなく首を傾げた。
「しゅっせ……出世?」
 口にした瞬間、きゅぽん、とは何かの栓の抜けるような音を聞いた気がした。そしてその栓の抜けた部分から、ぶわりとなにかが湧き上がってくるような感覚。
「……っ、……あ……?」
 突然世界がひっくり返ったかのような眩暈を覚えて、は膝から崩れ落ちるようにして床に手をついた。
!?」
 頭を押さえて膝をついた娘に、それまで楽しげに笑っていた両親はぎょっとする。ふたりは慌てて娘の下に駆け寄ると、両側から娘の顔を覗き込んだ。だが、娘であるはそんな両親すら目に入らないほどの苦痛に悶えていた。
「あ……うう…………」
 頭が割れそうに痛い。出世、上司、仕事……アスファルトで舗装された道に、ぎゅうぎゅう詰めの満員電車、職場の近くの美味しいパスタ屋さん、おうちのベッド。それはかつて“わたし”を構成していた記憶の欠片。だが、嫌いだった上司の顔も、職場までの道程も、お気に入りのパスタ屋さんの名前もにはまったく思い出せない。繋がりを持たない記憶の断片だけが、ただチカチカとちらつくように脳裏をよぎる。なにを思い出して、なにが思い出せないのかもよく分からなかった。ただ、なにかに関連することを思い出そうとしたとき、そこに必要な記憶がないことによって、はそれが思い出せないものだと知るのだ。
「どう、して……」
 どうして、わたしは今ここいいるのだろう。思考することは許されず、徐々に意識が白んでいく。
! !」
 必死な両親の呼びかけを聞いたのを最後に、の意識は途切れた。



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2012.12.11