――カラカラカラ

 ぺこり、ぺこり。パチ、パチ! ぺこり。神社の拝殿の前にぶら下がっている大きな鈴を鳴らし、二礼二拍一礼と柏手を打つ。
(出世できますように!)
 投入金額は一万円と奮発した。だってどうしても叶えたい願いだったのだ。誰よりも早く、誰よりも上に。そして権力を笠に無理を通し、道理を引っ込めさせたあの男たちを見返してやるのだ! 目には目を、歯には歯を、権力には権力をである。
 わたしはセクハラを揉み消した万年係長の使えない直属の上司とその取り巻きの男たちの顔を思い出して、ギリギリと歯ぎしりした。



blooD is thicker thaN wAter




――うとうと……うとうと……
――ゆらゆら……ゆらゆら……

 まるで魚になり美しい湖面を漂うような、穏やかな眠気を楽しみながらわたしは夢と現実の間をたゆたっていた。

――こぽこぽこぽ……

 水はあたたかく、柔らかにわたしを包み込む。だが、その穏やかな時間はそう長くは続かなかった。

――こぽこぽごぽごぽぎゅるるるるる……

 静かな水の音に混じって、妙な音が聞こえ始めた。そしてその音を意識した瞬間、今まで聞こえなかった他の音まで聞こえてくるようになる。何かがリズムを刻むような音や、水の流れていくような音、空気の動く音。それらの音は混じり合い、やがてひとつのまとまりをもった音になった。テレビの砂嵐のような、あるいは、買い物袋をぐしゃぐしゃともみくちゃにしているようなザザザという音。不思議と不快ではない、けれどそれは眠りを妨げ、わたしは思わず眉を寄せた。
(うるさい!)
 声に出したつもりだったが音にはならず、はっと目を開けようとする。今、何時だろう? 目を開けてびっくりした。辺りは、真っ暗だった。
(……え?)
 ぱちぱち、と目を瞬く。反射的に目覚まし時計を探すために手を動かそうしたが、思うように動かなかった。
(……金縛り?)
 たしか、身体が寝ていて脳が起きている状態だったっけ? 落ち着くために深呼吸をしようとしたが、金縛りはそれすらも許してくれないようだった。うまく息を吸えた気がしない。だが。
(…………?)
 息が吸えなかったにも関わらず、酸素がなくて苦しいというわけでもなかった。……なにかが、おかしい。呼吸だけは、身体が無意識に行ってくれているのだろうか? いや、でも……と考えたそのとき、辺りに声が響いた。
 「あなた……今日、生まれるかもしれないわ」
(……え?)
 その声は、まるで無理やり水中で喋ったときのような声だった。音の波が液体に邪魔されているときの、独特な歪みをもった音。言っている内容はかろうじて聞き取れる。声の主は、どうやら女性のようだった。
「いいえ、そこまでは……朝からおなかがやけに張っているとは思っていたんだけど」
 女性は誰かと会話をしているようなのだが、その相手の声は聞こえない。独り言ではないようだけど……。
「大丈夫よ。それより、先生をお呼びして……ええ」
 わたしの中で、ある仮説が浮かび上がる。いや、でもまさか……。考えかけた内容を認めたくなくて、わたしは被りを振った。そんなこと、あるはずがない。気のせいだ。きっと、気のせい。だが、ほんの少しの間先程の雑音だけが聞こえる状態が続いたあとに響いた女性の声を聞いた瞬間、私は絶叫を上げた。
「もう少しで会えそうね、私の赤ちゃん。元気に生まれてきてね」
(…………!)
 その絶叫は、音にならなかった。
(冗談でしょ……!?)
 わたしが吸っていたのは、空気なんかじゃない。
(ここは。ここは……!)
 気付いた瞬間、味覚に生臭い味を感じた気がして吐き気が込み上げた。
(いや、いや、いやっ! ここから出して! 気持ち悪い!!)
 自分を包み込む羊水の中で、わたしは声にならない叫びをあげ続けながらもがく。
「う、あっ…………」
 女性の苦しげな声は、ここから逃げ出そうと必死なわたしの耳には届かなかった。



 ギリギリと頭を締め付けられて、わたしは呻き声をあげた。いだだだだだ……痛い痛い痛い!! 母体を傷つけまいと、胎児であるわたしの不完全な頭蓋骨は折り重なり合い、形を変えて出口に向かう。あまりの激痛に目に涙が浮かんだ。お願いだから早くこの苦痛から解放して……!
 涙が流れるのと同時に、他の“なにか”がぽろぽろと零れ落ちていく気配を感じてわたしは慌てた。
(それ、は……)
(……っ、やだ、やめてっ、持っていかないで!)
(それはわたしの大切な……)
 気が付くとわたしはその“なにか”に手を伸ばして必死に縋っていた。けれど、わたしの小さな手では全てを掴むことができない。わたしの意思に反して、それは小さな指と指の隙間からぽろぽろと零れ続ける。それでも僅かに手元に残った“なにか”をわたしはぎゅっと握りしめた。



 自分の口から、喉から、腹から、悲鳴があがった。締め付けられた頭が痛かったからなのか、手を伸ばしてもなお掬いきることのできなかった“なにか”に対してなのか、自分でも分からない。叫び声を上げ、肺を満たしていた羊水も全て吐き出して、わたしはこの世界で産声を上げた。



「瞳は君の色だね」
「髪の毛はあなたの色ね」
「かわいいな」
「かわいいわね」
 穏やかな男女の声がする。女の腕の中、柔らかな布に包まれてわたしはまどろんでいた。
「生まれてきてくれて、ありがとう。……私があなたのお母さんよ」
 そっと頬に口付けを落とされた気配。わたしは思わずふにゃりと笑顔を浮かべた。
「笑ったわ」
「この子にはもう君のことが分かるんだね」
 嬉しそうな母親の声と、それに言葉を返す男の声。今度は握りしめた拳をそっとつつかれる気配があった。
「ほーら、僕が君のお父さんだよー」
 差し出された指を反射的に掴みかけて、わたしはふと気付く。固く握りしめた手に、わたしはなにも持ってはいなかった。わたし、なにかを掴もうとしていた気がするんだけど……。いったいなにを、掴もうとしていたんだっけ……? 思い出せない。あるいは、最初からそれがなにか知らなかったのかもしれない。けれど、もうどうでもよかった。今はただ、この心地よい疲れに身を任せて眠ってしまいたかった。
「あら……ふふ、寝ちゃったみたい」
 優しげな母親の声を聞いたのを最後に、わたしの意識は深く深く沈んでいった。

――やだ、やめてっ、持っていかないで! それはわたしの大切な……
――大切な、前世の記憶



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2012.12.11