「うああああああ!」
真は、己の診療所に戻ると、鍵をかけて絶叫した。
棚に置いてあった薬瓶をまるごと腕で払えば、悲惨な音が部屋中に響き渡る。
硝子製の瓶は土間に叩きつけられ、割れて破片を飛び散らせた。
ありとあらゆる錠剤と破片が交じって床に散らばるが、今の真にとってそんなことはどうでもよかった。
「小春さん小春さん小春さん小春さん小春さん!」
いくら叫べども彼女はこの場には存在せず、真は心を乱し頭を掻き毟る。
どうして。どうして。どうして!
どうして、彼女は自分のものにならない。
こんなにも自分たちは愛し合っているのに。
彼女は一月後、他の男の元に嫁ぐ。
なんという酷い話だ。
医者とその患者として出会った自分たち。
彼女の病が完治すれば、繋がりはなくなる。
自分を恨むと言った彼女のあの泣きそうな表情を、真は永遠に忘れないだろう。
「小春さん……」
真は呟くと、ゆっくりと診療所を見渡した。
広い机に無造作に置かれていた風呂敷を広げて、無言で荷物をまとめる。
聴診器に、注射器、それから、先程の棚とは別の場所に置いてあったいくつかの貴重な薬。
故郷に、自分のいるべき所に帰ろう。
江戸にはあまりにも彼女との思い出が溢れかえっている。
こちらにいる間、扉の向こうでは時間が過ぎない。
戻れば、また地獄のような日々が待っているのだろう。
寝ることすらままならない生活。
空襲に焼かれた街。
助けることの叶わなかった数多くの兵士。
それでも、彼女の影がちらつくこの土地にいるよりはましというものだ。


手招きする鬼

(現実から目を背けて、私はいったいどこまで逃げるというのだろう)
(戦争からも、彼女のいる世界からも逃げ出して、私はいったいどうしたいというのか)






30 ←   → 31





----------
20091223