ざあざあと降る雨が、容赦なくを濡らす。
いつだったか仁吉に選んでもらった淡萌葱の着物は、水が染みこんで緑青色になっていた。
はは、と乾いた笑いが漏れる。
「なにやってるんだろ、わたし……」
好きだなんて、言うんじゃなかった。
理由なんて、聞くんじゃなかった。
今更そんなことを思っても仕方がないのに、後悔の言葉ばかりが頭を占める。
――ああ、わたし、なんでここにいるんだっけ?
江戸薬師考
「小春お嬢さん!?」
そう声を掛けられたのは、突然だった。
降りしきる雨の中、傘を持っていないにも関わらず、急ぐ様子も見せずぼんやりと歩いていた。
そんなにちらりと訝しげな視線を向けた老齢の女性が、はっとしたように叫んだのだ。
「え……?」
「あ……」
驚いて思わずそちらを見る。
そこに立っていたのは、白を基調とした番傘を傾げる、霞色の着物を着た老婆だった。
白花色の帯がよく似合っている。
頭髪は白いものの綺麗にまとめ上げられていて、全体的にどこか品の良さを感じさせた。
声をあげた老婆はを見つめたまま2・3度目を瞬かせると、ふっと悲しげに目を伏せた。
「すみません、人違いのようです……」
を見て、誰を思い浮かべたのだろうか。
あまりにも落胆した様子を見せる老婆に、も眉を下げる。
なにか言葉を掛けてやりたいところではあるが、見知らぬ人物相手に掛ける言葉は見つけられなかった。
自分だっていっぱいいっぱいのくせに、なにをやっているのだろう。
自分のしようとしたことを考えて、内心苦笑いする。
「ええと……お気になさらず」
結局、当たり障りのない言葉のみを紡いで、は歩き出す。
だが、そんなの背にすぐに再び声がかかった。
「あ、あの……!」
「はい?」
意識的に口元に笑みの形を作ってから、はゆっくりと振り返る。
今はそうしないと、笑える気がしなかったから。
そんなに当然気付いた様子もなく、老婆は慌てたように口を開いた。
「全身ずぶ濡れで、お寒くありませんか?」
「ええと……?」
相手の意図を計りかねて、は困ったように首を傾げる。
そんなの様子に気付き、老婆は言葉を足した。
「すぐそこにうちがあるんです。よかったら上がっていって下さい」
といっても私の奉公先なんですけれど。
付け加えられた言葉にますます困惑する。
「でも……」
奉公先である場所に、勝手に他人がお邪魔してもいいものなのだろうか。
全身ずぶ濡れだし……。
「お願いします。あなたと、少しだけお話してみたいんです」
どこか必死な様子の老婆。
なぜだろう。
確かに気になる点はいくつかあったけれど、べつに、断ってもよかったのだ。
正直なところ、はこのとき絶賛傷心中であり、ひとりになりたい気分であった。
……けれど。
は結局そうしなかった。
「……分かりました。それでは、少しだけお邪魔させていただきます」
必死な様子の老婆が、先程までの自分と重なったのか。
あるいは、もっと必然的ななにかなのか。
これが運命以外の何物でもないのだとが気付くのは、すぐ後のことだった。
想像以上に立派な屋敷に通されて、は恐縮しきっていた。
どうやら、老婆は旗本である川口家の家人であったらしい。
名前は十和といい、現川口家当主の乳母だったのだとか。
本来ならば本家でそれなりの地位をもらえるはずの十和ではあったが、彼女はそれを断り、隠居した前当主と共に、その身の回りの世話をしながら暮らしているそうだ。
それならそうと先に言ってくれ!
そんな偉大な人物のお屋敷を、雨水でびちょびちょの足袋で歩いてしまったではないか。
向こうは向こうで気を遣っているのか、廊下からは静かに雑巾がけをしている音が聞こえる。
(なんかもう本当にすみません……)
濡れた格好のまま、安易に初対面の人間の家に着いてくるべきではなかった。
申し訳なさを感じつつ、はぁと溜息をついては今まで着ていた濡れた着物を脱ぐ。
貸してもらった大きい手ぬぐいを使って全身の水気を拭った。
ふと横に目を向ければ、そこには薄桃色の着物の一式が折りたたまれて置いてある。
これを着ろということだろう。
(綺麗な着物……)
広げた着物の柄を見て嘆息する。
もちろん、この時代においてはそれなりの収入があるにとって買えないようなものではなかったが、だからといって普段着用に何着も持てるようなものではないのも確かだった。
だが、他に着るものがあるわけでもないので、とりあえずありがたく着ることとする。
川口家が旗本であることを考えれば、きっと大したことではないのだろう。
うんきっとそうに違いない、とは自分を納得させた。
「さん、入ってもよろしいですか」
着物の帯を結び終え、後ろに回したちょうどそのとき、ふすまの向こうから声が掛かった。
「ええ、どうぞ」
がそう返事をすれば、静かにふすまが開き、中に十和が入ってくる。
十和は着替え終えたを見ると、感慨深げに息を吐いた。
「ああ、その着物を着るとますます小春お嬢さんそっくりですね……」
あまりにもしみじみと言うものだから、は思わず尋ねた。
「その、小春さんというのは」
十和は寂しげに微笑む。
「亡くなったこの家のお嬢様ですよ」
しまった、という感情がの顔に出ていたのか、十和は苦笑した。
「とはいっても、もうだいぶ前の話ですがね」
言いながら、十和はの前にお茶と茶請け用の羊羹を並べる。
「お茶を飲みながらで構いません。少し、話を聞いていただけますか?」
尋ねた十和に、は頷く。
きっとその話がしたくてをこの屋敷に連れてきたのだろう。
「……ありがとうございます」
ほっとしたように微笑んで、十和は静かに口を開いた。
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20100421