ぽつり、ぽつり、と雨が落ちる。
仁吉は無言で傘を開いた。





江戸薬師考





「仁吉さんは、それでいいのですか」
しばらくの沈黙の後、はようやくそれだけを言った。
「それで、というと?」
まるで嘲笑するかのように尋ねる仁吉に、は眉を寄せる。
この男、本当はすべて分かっているんじゃないだろうか。
「わたしが若だんなに嫁いでもいいのかと、聞いているんです」
は苛立たし気に答えた。
仁吉は表情を変えない。
「あたしは、若だんなの望みが叶うのならいいと言ったはずですが?」
「そうじゃなくて!」
思わず言い掛けて、止める。
「そうじゃなくて?」
仁吉が先を促したが、は口をつぐんだ。
唐突に気付いた。
やはり、仁吉はすべて分かっている。
分かっていながら、明確な答えをくれようとしないのだ。
それに気付いて、落胆した。
「若だんなに、わたしがふさわしいかどうかを、聞いているわけではないんです」
だからは慎重に言葉を選ぶ。
言葉遊びで逃げることなど許さない。
「わたしがだれかの嫁になること自体に、仁吉さんはなにも感じてはくれないのですか」
そう言って、まっすぐと仁吉を見つめる。
先生、なにが言いたいんです?」
仁吉はどこか必死な様子だった。
「本当に、分からないのですか?」
そしてもまた、必死だった。
とて、自惚れているだけのつもりはない。
あれほどまでに、若だんなしか見ていなかった仁吉。
そんな彼が、つい、とか、うっかり、でだれかを抱き締めることなどありえない。
「分かりませんね」
それでも彼は認めなかった。
つれないひと。
は思う。
しかし、どうしても自分が恋しいと思うのは彼だけなのだ。
彼との恋が叶わないことなど知っている。
けれど、
けれど、
「わたしは……わたしは、」
溢れ出す想いが止められない。
どうしてこのひとなんだろう。

「……好き。好きなんです。仁吉さんが、好き」

気が付いたら、そう口にしていた。
涙がこぼれてきて、思わず両手で顔を覆う。
ああ、わたしはなんと不毛な恋をしているのだろう。
僅かな沈黙。
仁吉はすぐに口を開いた。
「残念ながら、先生の気持ちに応えることはできません」
「…………はい」
そんなこと、分かっていた。
自分と仁吉は人間と妖で、まして生きる時代すら違う。
結ばれるはずなどない。
「……ひとつだけ、聞いてもいいですか」
漏れそうになる嗚咽を飲み込んで、口を開く。
それでも、どうしても知りたかった。
「なんです?」
応える仁吉の声は、不思議と柔らかく聞こえる。
それはあるいは自分の願望かもしれない。
けれど、それでもいい。
彼の声が優しいだけで、幸せだと思える。
「もしもわたしが、仁吉さんと同じように妖だったら。もしも仁吉さんが人間だったら。答えは変わっていましたか?」
もしも、なんてありえないけれど。
幸福を夢に描くくらい、許されるでしょう?
「いいえ」
しかし、仁吉は即答した。
ショックだった。
「わたしのことなんて、なんとも思ってなかった?」
思わず縋るように尋ねれば、彼は真顔で首を振る。
「そうではありません」
「え?」
それは、どういうこと?
もしもふたりが同じ種族であったとしても、仁吉はの気持ちに答えなかったのだという。
けれど、仁吉はのことをなんとも思っていないわけではない。
意味が分からなかった。
そもそも、と仁吉は口を開く。
「人間と妖が結ばれることは、例は少ないとはいえ、まったくないというわけではありません」
人間と妖の間には、子をもうけることだってできる。
そう、若だんなの祖父母である、かつての皮衣と伊三郎のように。
「それなら、どうして……」
なにがいけないというのか。
見上げたに、仁吉は静かに答えた。

「だって先生。あなたは、若だんなの想い人だ」
どうして自分の主の想い人を奪うことができようか。

その言葉を聞いた瞬間、目の前が真っ暗になった気がした。
「な……に、それ……」
よろりと、仁吉から距離をとった。
必然的に傘の外に出る形となり、雨が着物を濡らす。
今度こそ、はっきりさせなくてはいけない。
「仁吉さん、わたしのこと、どう思ってるんですか?」
声が震えた。
仁吉は困ったような表情で微笑む。

「お慕いしていますよ」

それはたしかなる愛の言葉。
ガンッ、と後頭部を殴られたような気分だった。
互いに想い合っていて、人間と妖の恋が禁忌というわけでもない。
それなのに、この恋は叶わないというのだ。
先生、濡れてしまいます。傘の中に入って下さい」
彼女はまだ病み上がりだ。
仁吉は心配そうにそう言って、の方に傘を傾けようとする。
けれどはますます仁吉から距離をとって、それを拒んだ。

「仁吉さん。もう一度聞きます。あなたは、わたしが若だんなに嫁いでも、なにも思わないのですか」

「若だんなが幸せなら、あたしも幸せですから。それに、先生が若だんなの嫁になるのなら、あなたのことも堂々と守ることもできる」

あらゆる脅威から。
あらゆる不幸から。
主人が大切にする妻を、守ることができる。
「そんな不純な家人なんて、いりませんよ」
は泣き笑いを浮かべた。
どこに、主人の妻に恋をし、それを守ろうとする家人がいるというのだろうか。
こんなのってあんまりだ。
「もう、ここまででいいです。送ってくださってありがとうございました」
これ以上は、仁吉とふたりきりの空間に耐えられない。
先生、傘を」
ここで分かれることには文句をつけず、それでも最後まで仁吉はの身を案じた。
しかしは首を振る。
「わたしはもう十分濡れてしまっていますから、それは仁吉さんがさして帰って下さい」
それに、その傘を見たら切なくて泣いてしまうだろうから。
すでに雨か涙か分からぬもので滲んだ世界を見ながら、は思う。
先せ、」
「それでは、また」
仁吉が紡ごうとした言葉は最後まで告げられることはなく、は深々と頭を下げて道を歩き出した。





人通りの少ない道の真ん中、赤い番傘をさした男がぽつんとひとり。





29 ←   → 30.5





----------
20091222