「仁吉や、先生を診療所まで送っていっておやり」
途端に、名前を呼ばれた手代は眉を寄せて若だんなを振り返った。
その顔にはありありと、なぜこのあたしが? といった不満げな表情が刻まれている。
「近頃、薬種屋の人間が狙われているだろう」
先生も特殊な薬を使うから。
薬種屋ではないが十分に危険はある、と若だんなは言った。
「しかし、あたしが若だんなの元を離れたら、今度は若だんなが危険になります」
「私は外には出ないから平気だよ。それに、佐助がいるし」
「ああ、若だんなのことなら請け負いますよ」
自分の方が若だんなの元にいられるのが嬉しいのだろう、ニヤニヤと仁吉を見ながら、佐助が言う。
若だんなは退かなかった。
しばし鋭い視線を若だんなと仁吉は交わしあって、結局折れたのは仁吉の方だった。
はあ、と溜息を吐いて口を開く。
「分かりました。その代わり外出はしないで、ちゃんと佐助を傍に置いて下さいね」
結局、若だんなのお願いには勝てない仁吉なのであった。





江戸薬師考





仁吉が言った。
「若だんなに心配してもらえるなんて、光栄に思いなさいね」
「仁吉さん。口に出されると非常に恩着せがましく感じるのですが」
顔を引きつらせながら、が答える。
日が沈み、薄暗くなり始めた江戸の町をふたりは歩いていた。
薬種屋の事件がなくとも、夜の江戸は明かりなどなく不気味だ。
何か出てきそうな気配だ、と思ってから、は横にいる青年こそ人間ではないことを思い出した。
「うーん。怖いものなしよねぇ」
「……なにがですか?」
思考を思わず口にしてしまったらしい。
問い掛けられてから、あれ、とは呟いた。
しかしすぐに自分の行動に思い至ったは、 ああ、うん、と頷いて口を開く。
「仁吉さんにとったら、大抵の人間や妖はとるに足らないものなんだろうなと思いまして」
「どういう意味です」
いまいち分からない、というように仁吉が首を傾げる。
は小さく笑った。
「仁吉さんがいれば、夜道も安心できるということですよ」
「ほう」
彼の口調は、揶揄を含んでいた。
「隣に妖がいて、安心できると?」
口元を僅かに歪ませて、仁吉が言う。
きょとん、とは首をかしげた。
「仁吉さんは、わたしを守ってくださるのでしょう?」
の言葉に、仁吉の動きが一瞬止まる。
ぱちり、と彼は目をしばたたかせての方を見た。
もまた仁吉の方に顔を向けて、不思議そうな顔をする。
「違うんですか?」
彼女のあまりにも純粋な信頼に、仁吉は面食らった。
なんて返したらよいのかとしばし逡巡して、結局苦笑する。
「まあ、若だんなの言い付けですからね」
「えー、それだけですかー?」
つまんない男ですねー、と声は不機嫌そうだったが、のその表情は笑っていた。
仁吉はそんなをじっと見て、やがて視線を外す。
そしてぽつりと言った。
「なんか先生と話していると調子が狂いますね」
「いやいや、全開な発言しておいてなに言ってるんですか」
仁吉さん結構ヒドイこと言ってますよ。
呆れたように、が言う。
「そうですか?」
真面目な顔をして仁吉が問うので、今度はが驚いた。
「無自覚ですか」
「すみません」
「…………」
そういえば仁吉や佐助はときどき見当違いなことを言うことがあることを思い出し、は、なるほどねえ、とひとり頷いた。
やはりどんなに人間らしく化けていても、彼らは妖なのだ。
先生」
「はーい?」
しばらく黙り込んでいた仁吉が唐突に口をきいたので、は少し驚きつつも、それを表情には出さずにのんびりと返事をした。
仁吉はやはりまた少しの沈黙を作ってから口を開く。
「あなたのこと、若だんなのついでにくらいなら守ってあげてもいいですよ」
「へ?」
一瞬なにを言われたのか分からなくて、は横にいる仁吉の顔を見上げた。
彼もまたを見ていたらしく目が合ったが、すぐに逸らされる。
「仁吉さん?」
「…………」
呼び掛けるが返事はない。
自分で言ったくせに照れているのか、この妖は。
はふふふと笑みを浮かべた。
仁吉の一番が、若だんなであることは重々承知である。
一番どころか、二番三番も若だんななのだろう。
それでも、その何番目かの次は自分なのだ。
そう思ったら、なんとなく嬉しくなった。
「仁吉さん、ありがとうございます」
やはり仁吉から返事はなかったが、は笑っていた。





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仁吉ツンデレ説浮上。
20080712