その知らせを聞いたとき、はぎょっとして食べていたおはぎから手を離した。
「ええっ、若だんなと仁吉さんが倒れた!?」
ぼとり、と音をたてておはぎが床に落ちる。
(若だんなはともかく、なんで仁吉さん!?)
かの美丈夫が病に伏す光景など目にも浮かばず、の眉間にしわが寄る。
いや、無論彼とて人間なのだから患いもするだろうし、怪我だってするはず。
けれど、仁吉という人間や、長崎屋のもうひとりの手代である佐助なんかに“病気”という文字はどうしても似付かわしくないように思えたのだ。
「はあ、それが薬種問屋に押し入った者と乱闘になったそうで」
を連れてくるようにと言付けられた長崎屋の下っ端家人は、少し困ったようにいう。
それはそれで意外だ、とは目を丸くした。
あの仁吉を昏倒させるとは一体どんな人物なのだろう。
興味が湧かないわけでもなかったが、今はそんなことを考えている場合じゃないと気付き、は白の羽織を肩に掛け、立ち上がった。
江戸薬師考
「……なんです、仁吉さんピンピンしてるじゃないですか」
「随分と残念そうですね」
「そんなコトありませんヨー」
仁吉の頭に晒しを巻きながらが呟いた言葉に、仁吉は器用にも片方の眉だけを上げて返した。
倒れたなんていうから慌ててきたのに、なんていうの心の声はこの男には聞こえない。
が長崎屋についたとき、仁吉はすでに意識を取り戻していた。
というよりは、そもそも長崎屋の家人が診療所に来時点でとっくに目覚めていたらしい。
心配して損した、とはやはり心の中でごちる。
若だんなの方の治療は既に済んでおり、いまだ目を覚まさない彼を、今は源信が診ている。
「しかし、手の怪我の方は酷いですねー」
「ああ、思い切りざっくりとやられましたからね」
まだ治療を行っていない血塗れの左手を見て、は嫌そうな顔をした。
正直外傷は専門外だ。
この時代の医者でさえ、内科医と外科医に分かれている。
それでも治療できない範囲ではないので、は用意していたぬるま湯に手拭いを浸し、仁吉の手をとった。
「仁吉さんは本当に一太郎さん命ですよねぇ」
濡らした布で仁吉の手にこびりついた血を優しく拭いながら、しみじみとが言う。
「若だんなはあたしの全てですから」
仁吉は目を細めてを見つめながら、そう答えた。
ふ、との顔に苦笑いの表情が浮かぶ。
「あんまり無理すると、一太郎さんが心配してしまいますよ?」
「坊っちゃんはお優しいですからね」
の言葉に、仁吉もまた優しい苦笑いをした。
しかし若だんなが仁吉や佐助を大切にしている理由はそれだけではないだろう、とは思う。
若だんなにとって、彼らは大切な家族も同然の存在なのだ。
しばしの間沈黙が流れて、ぴちゃり、と手拭いが水中で揺れる音だけがする。
突然、仁吉の手の血を拭っていたの手が止まった。
「先生?」
仁吉は訝しげな声をあげる。
びくり、との手が揺れた。
「……仁吉さん」
「なんです」
「……手、思い切りざっくりと切られたんですよね」
「ええ、それがどうし……」
それがどうしたというんです?
言葉は最後まで紡がれず、仁吉の台詞は不自然な所で止まった。
「…………」
「…………」
先程よりもさらに静かな沈黙が流れる。
ふたりの視線は同じ場所に注がれいた。
視線の先には、が掴む仁吉の左手。
「仁吉さん」
沈黙を破ったのは、の方だった。
「はい」
少し疲れたような、固い声で仁吉が返事をする。
「傷、塞がるのが少々早過ぎやしませんか?」
「そうですか?」
「仁吉さん」
すっとぼけようとした仁吉をたしなめるように、がその名を呼んだ。
「……わたしは医者です。誤魔化せるとお思いですか」
本当は元の時代に戻ればただの女子高生でしかないであったが、これはおかしいと断言できた。
こんなこと、ありえない。
が駈けつけた時点では、もう少し傷は深かったはず。
と、ひとつの考えが頭をよぎった。
考えれば考えるほどそれは真実味を帯びてきて、は確信する。
患者のプライベートに立ち入る気はない。
しかし、それが自分の仕事に関わるのならば、はっきりさせなくてはいけなかった。
そして告げる。
「……仁吉さん。あなたは人間ではありませんね?」
彼の口元が弧を描いたのを、は確かに見た。
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20080704