祖父が死んだ。
厳しいけれど、とても優しい人だった。
目に染みるほどのまばゆい夕日を眺めて、世の無常を果無む。
大好きだった。
尊敬していた。
憧れていた。
祖父は若い頃、医者だったらしい。
定年よりもずっと早く現役を引退してからは、もっぱら小説を書いていた。
小説を書いていたといっても、数年に一冊、思い出したように自費出版していただけなので、彼の肩書きは小説家ではなかったかもしれない。
そんな祖父は、いつもぼんやりと遠くを見つめている人だった。
春になると少しだけ寂しそうな顔をして、それでも人生に失望しているわけではなく、その瞳にはいつも光が宿っていた。
「自分が今できると思うことをしなさい。この一瞬一瞬は、二度と戻ってこないのだからね」
口癖とさえいえる祖父の言葉は、今もこの胸に。
江戸薬師考
祖父の葬儀が終わって一週間後のこと。
わたしは、生前祖父が住んでいた家にやってきていた。
遺品の整理にきたのである。
小さい頃はよく遊んでいた庭などを眺めれば、感慨深気な溜息が口から漏れた。
「命とはかくも儚きものなり、かぁ」
いまだに祖父が死んだなんて信じられない。
古きよき日本家屋の縁側から家の中に入れば、今でも祖父が「よく来たね」なんて微笑んでくれるんじゃないかと錯覚する。
まあもちろんありえないんだけど。
家の鍵を開けて、中に入り込む。
入った瞬間、湿った木の匂いと、少しのほこりくささが鼻孔をくすぐった。
持参したスリッパを履き、廊下に足を踏み出す。
ぎしり、と床が音をたてた。
「ん? こんな所に部屋なんてあったっけ?」
いくつかの部屋をまわった後、わたしはとある扉の前で立ち止まった。
書庫の奥の方で、ひっそりと佇む扉。
家の扉は全て引き戸なのにもかかわらず、そこだけが開き戸なのがやけに不気味だった。
「…………」
そっ、とドアノブに手を掛ける。
その向こう側に広がる世界は、私を驚嘆させるに充分だった。
こっくりと船を漕いで、はっと覚醒した。
部屋に差し込む陽が作る影を見れば、それほど長い時間居眠りしていたわけではなさそうだった。
「夢か……」
随分とはっきり夢を見たものである。
この現代と江戸を繋ぐ不思議な扉。
その扉を見付けたときのことは、まだ記憶に新しい。
ふぅ、と息を吐いたところで、診療所の戸がからりと開いた。
「おや、先生。午後の診療はまだでしたか?」
「仁吉さん」
特に許可をとることもなく中に入ってきた彼は、不思議そうに首を傾げた。
「珍しいこともあるものですね。先生がこの時間にここを開けていないとは」
「……すいません。往診の時間過ぎてしまいましたか」
午後一番には、若だんなの往診の予定が入っていたのだ。
彼が自分を迎えにきたということは、とうに予定の時間が過ぎているということだろう。
そう思って謝罪すると、彼からは意外な返事が返ってきた。
「いえ、予定の時間まではもう少しありますよ。迎えにきましたのは、昼餉がまだでしたらご一緒にどうかと誘いにきたのです」
「え?」
「若だんなが、先生と一緒に食べたいとおっしゃりまして」
「は、はあ」
なんだ、若だんなの方か、とわたしは動悸を押さえた。
仁吉さんがわたしを食事に誘うなんてどんな裏があるのかと心配してしまったじゃないか。
若だんなといえば、なぜかものすごくわたしに懐いている。
ついこの間も、ひらひらとした金魚と、それを飼うための美しい陶器の大皿を戴いてしまったばかりだ。
鑑賞用の金魚は、深めの皿で飼い、上から美しさを堪能するのが正しいのだとか。
にこにこと楽しげに言われて素直に受け取ってしまったが、問題なかったのだろうかと今更ながら不安になる。
わたしの記憶が確かなら、あれは蘭鋳(らんちゅう)という高級品種だったはず。
更紗模様が美しい白の雌と、すらりとした赤い雄の二匹。
しかも、陶器の皿の裏には、いかにも立派に作者の名前が刻印されていた。
受け取ったあとになってから値段を想像して冷や汗を流したものだ。
閑話休題。
「わたしなんかが昼餉をご一緒して大丈夫なものでしょうか」
「若だんなが是非にと言ってらっしゃいるのだから問題ないでしょうに」
口に出したものとはまた別に理由があって誘いを躊躇っていたのだが、あっさり言われてしまうと仕方がない。
断るにも断れず、わたしは苦笑いともとれる笑みを浮かべて頷いた。
(なんとなく、外堀を固められているような……)
気が付けば大皿の中、なんてなければいいけれど。
手を差し出してきた仁吉さんに、わたしはそっと薬などの入った重い包みを手渡した。
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20080530