江戸薬師考
あれから何度、季節が移り変わったのだろう。
再び彼と巡り合うことを諦めてからは、時間が流れるのは早かった。
は夢をかなえ、医者になった。
たくさん学び、医師となった今でも、悩むことは数多くある。
むしろ、悩みは増えたと言ってもいい。
同じような症状が出ていても、原因と考えられる病気は山ほどあるし、あるいは原因自体見つけられないこともある。
本当にこの病名であっているのか。
処方した薬の種類は、量は、正しいのだろうか。
そしてまた、その悩みを解消するためにも、医師というものは常に進化し続ける医療を吸収するために、学会などに参加して日々学び続けなければなかった。
学べば学ぶほどたくさんの可能性が生まれてきて、仕事をこなせばこなすほど、自分の知らない症状に知り合う。
ああ、医者とはいかに勤勉でなくてはないのだろう。
いかに、患者を想う必要があるのだろう。
いつだったか、まだずっと精神的にも肉体的も幼かったころ、医者のまねごとをしていたことがある。
今よりもずっとずっと昔の、それほど技術が発展していない江戸の時代で、は現代の市販薬を用いて町医者をしていた。
なんと浅はかで愚かだったのだろう。
しかし、あの時間があったからこそ、は医者を目指し、夢をかなえた。
思えば、随分と不思議な体験をしたものだ。
想い人であった彼がに会いにくることは終ぞなく、は他に誰かを思うこともないまま年を重ねた。
夢だったのではないかとさえ思う。
祖父の書き残した小説を読んで、空想をしてしまっただけなのかもしれない。
けれど、あれから本当に時々だけれど、不思議なものを目にするようになった。
それは道端をのしのしと歩く、尾が二股に分かれた猫であったり、川をすいすいと泳ぐ緑色の生き物であったり。
近寄ると、逃げてしまうものたちが多いけれど。
そういえば、今や有名な人気俳優となった高校時代の同級生は、式とやらを引き連れていたっけ。
そんな小さなことが、それらの出来事が夢ではなかったことを物語る。
「先生、患者さん入れますよ」
「あ、はい」
ぼんやりしていると、ベテランの看護師が声を掛けてきた。
まだまだ未熟であるは、そんな彼女に頼ることも多い。
もう診療の終了時間が間近であるから、次の患者さんで今日は最後になるだろう。
白い引き戸を叩く、小さなノック音が2回。
は短く、どうぞ、と答えて患者を招き入れる。
「失礼します」
問診表を見ていたは、どこか聞き覚えのあるその声にはっと顔を上げた。
瞬間、
「…………!」
は言葉を失った。
その患者に対して座ることを勧めることもなく、ただ患者を見上げて目を見開く。
「どうしたんです、先生。そんなに目をまん丸にして」
「に、きちさ……」
そんな、ばかな。どうして?
慌てて問診表を見返すが、患者の名前は仁吉とはなっていない。
白沢(しらさわ)さん、というらしい。
他人の空似か?
いや、でも……。
「はるばるあなたに会いに来たんですから、もっと喜んでもらってもいいと思うんですけどね」
「!」
やっぱり、そうだ。
彼は仁吉に間違いない。
髷はないけれど。爽やかイケメンっぽいカットだけど。
わたしが彼を間違えるはずがない。
でも。
「なん、で……どうして……」
もう、会えないと思っていたのに。
会いになんか来てくれないと思っていたのに。
言葉がうまく紡げない。
視界が滲む。
悲しくなんかないのに。嬉しいのに。
「約束させたのは、あなたでしょう?」
「でっ、でも! 全然会いに来てくれなかったじゃないですか!」
ずっとずっと、待っていたのに。
涙ながらに叫ぶに、仁吉がにっこりと笑う。
見覚えのあるその笑みに、ますます涙腺が緩んだ。
「私もちょっとばかり悪戯心が芽生えましてね」
「……?」
困惑して仁吉を見上げるに、相変わらず笑ったままの仁吉。
そんな彼が告げた内容は、とんでもないものだった。
「だって、私ばかりが二百年も待たされるのでは、つまらないでしょう?」
既に二百年以上待ったのだ。
今更六、七年増えたところでどうということはない。
だから、
「先生にも、“待つ”切なさを味わってもらうべきなのではないかと思ったわけです」
それに、あなたは目標を見つけたようでしたから、すぐに会いに行ってしまったら、それを邪魔してしまうような気がしまして。
どこか意地悪い声色の仁吉。
「ばっ、ばかじゃないですか!」
それに返すの声が裏返った。
ああ、もう、本当に泣けてくる。
「ていうか仁吉さん、なんで名前変えたんですか? 全然気付かなかったじゃないですか」
「当り前でしょう、そんな古臭い名前、いまどき流行らないじゃないですか」
嬉しいやら、恥ずかしいやら、憤りを感じるやら。
様々な感情を上手く処理できなくて、は少し怒ったように言えば、仁吉はあっさりと返した。
なるほど、たしかに二百年間同じ名前というのも、おかしいだろう。
「これでも、なかなか苦労したんですよ。あなたを見つけた後、あなたに見合う年齢の戸籍と経歴をあつらえたんですから」
今の世は二百年前よりずっと、その人間がどこの誰かといったことに厳しい。
久しぶりに会った仁吉は、口調も昔とはどこか違った。
それは彼が、今の世に己を適応させた姿なのだろう。
「う、うう……卑怯です」
なにが、とは言わなかった。
もうなにもかもが卑怯だと思った。
これだけ焦らされたのも、守りの呪がついていたのも、わざわざ自分のために戸籍を作ってくれたのも。
仁吉はとの距離を縮めると、彼女の視線に合わせて僅かに膝を折り曲げて屈んだ。
「そんな卑怯者の私を想い、操をたててきたことを、後悔してますか?」
「〜〜っ! そんなわけないでしょう!?」
相手の望むままに言葉を紡いでしまっているのは分かっている。
でも、でも。
ああもう、馬鹿。大好きなんだってば。
目の前にいる仁吉の首に、は思い切って抱きついた。
かすかに彼の笑う気配が伝わって、抱きしめ返される。
「仁吉さん、好きです」
「ええ、私も先生が好きですよ」
耳元で囁かれて、胸がきゅうっとなる。
ようやく伝え合うことの叶った想い。
は抱きしめあう腕をゆるめると、仁吉と見つめ合った。
「ねえ、今度はわたしのものになってくださいます?」
「ええ、その代わり、あなたも私のものですから、お忘れなく」
ふたりで同時に笑いあって、そっと唇を重ねた。
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20110214