「えっ、おじいちゃんの家を取り壊す?」
「ああ、だいぶ古い家だからな。借りたいという人もいないだろう。遺品の整理も済んだことだし」
一瞬、考えたのはあの扉のことだった。
過去と現在を繋ぐ、不思議な扉。
家を取り壊せば、きっとあの扉も使えなくなるだろう。
けれど。
「……そっか、それがいいかもね」
はおじいちゃんに懐いていたから、寂しいかもしれないが」
自分を気遣う父の姿に、江戸で出会った在りし日の曾祖父の面影を見つけて、ほんの少し感傷的な気分になる。
しかし、は首を振った。
「ううん、思い出は記憶に残ってるから、大丈夫」
もう一度。もう一度だけと。
そこにある限り、願わずにはいられないのは、自分の弱さ。
想いを断ち切るためにも、再び同じ道を歩む者を出さぬためにも、そうしてしまうのが一番だろう。

わたしはこの世界で、常に未来を目指してしか、生きられないのだから。





江戸薬師考





「その家、取り壊してしまうんですか?」

え? と振り返ると、そこには見知らぬ男が立っていた。
歳は自分と同じくらいだろうか。
病的なほど白い肌に、いまどき女の子でもそれほど伸ばさないだろうというほどの長い黒髪。
身長は男性としては平均くらいだろう。
現代では普段から着ている人をほとんど見かけなくなった着物を着ており、右目を覆い隠すお札のようなものがなんだか怪しげな印象を与えていた。
ここは祖父の家がある敷地の入り口付近。
は家の解体工事の様子を眺めているところだった。
「残念ですね。……風情の残る、素敵なお宅だったのに」
「はあ」
どこか意味深な様子で、男が言う。
は曖昧に返した。
そりゃ風情は残っているだろうが、住む人間がいないのでは意味がない。
人の手が入らない家屋はすぐにだめになってしまうのだ。
「ところでお嬢さん、“それ”をどこで手に入れたんですか?」
「え?」
が聞き返したのは、同じ年の頃だと思われる青年にお嬢さん呼ばわりされたからではない。
“それ”と指し示す時、とんとん、と男が着ている着物の上から、自身の鎖骨のやや左寄りの辺りを指先で示したからだ。
は一瞬首を傾げた。
だがすぐに自分のそこにあるものに思い当たり、はっとその個所を手の平で覆い隠す。
そこにあるのは、“第三の目”。
とはいっても、本当に視覚のある目が存在するのではなく、赤い墨汁で描いたような目の絵が肌に浮かび上がっているだけだけれども。
今まで、以外にそれを目視できるものは誰もいなかった。
それは、あの名取でさえ。
しかも、今日はその個所は着ている服によって隠れていた。
にも関わらず、男にはそれが見えたというのか。
「失礼ですけど、どちら様ですか?」
はやや警戒しながら男に尋ねる。
男は口元をやや歪めたようだった。
「それは私の方こそ聞きたいですね。あなたは一体何者なんです? それは“白澤(はくたく)の目”でしょう?」
「白澤の、目?」
「おや、知らないんですか?」
訝しむ様子のに、男は不思議そうに首を傾げた。
“白澤”
それはたしか、“彼”の妖としての呼び名ではなかっただろうか。
「なにか、思い当たる節があるようですね」
考え込んだに、男はひどく胡散臭い笑みを浮かべた。
思い当たる節があったら、なんだというのか。
「私は的場。祓い屋をしています」
男はそう名乗った。
「祓い屋……っていうと、あの、除霊とかそういう……?」
「少し違いますが、まあ、似たようなものでしょうか」
へえ、と思いつつ、は的場という男からなんとなく一歩距離をとった。
名取くんと同業の人間だろうか。
どういうわけか高校卒業以来、名取とは交友関係が続いていた。
彼もまたそういった仕事に携わっているのだということを、はなんとなく聞いている。
「私が名乗ったんですから、あなたにも名乗っていただきたいのですが」
有無を言わさぬ物言いに、は思わず眉をひそめる。
「……です。大学生やってます」
名乗るべきか一瞬迷ったが、まあ、名前と職業くらいはいいだろう。
最初に自分の方が誰かと聞いた手前、答えない訳にもいかない。
……ああ、この家に住んでいた人間の縁者ですか」
古びた表札を見ながら、的場がいう。
「ええ、まあ」
は頷いた。
「ただの大学生が、どうして白澤の目なんかを持ってるんです?」
「あの、言っている意味がよく分からないんですが……」
彼の質問の意図することがよく分からない。
どうして彼はこれを白澤の目だと知っていて、それに執着する?
「白澤は妖といえども、神獣と呼ばれる類のもの。彼らには目が合計九つありますが、そのうちのひとつを、あなたは所有しているようだ。そしてその目は、あなたを護っている」
「護っている?」
は聞き返した。
護っているとは、一体どういうことだ?
「ええ、並大抵の妖はその気に圧されて、あなたに近付くことすら叶わないでしょう」
もっとも、まったく邪な気を纏わぬ妖なら近付けるのでしょうが。
それこそ、神やそれに近しい妖ならば。
おかげで私の式も、ここに近寄れないでいるようです。
そう言ってから、的場は現在進行形で取り壊されようとしている家屋を眺める。
「ここにも、数年前までは小さな妖がいたのですよ」
鳴屋と呼ばれる小さな鬼が。
「特別害はありませんが、小さいといえども鬼は鬼」
あなたを護る気に圧されて、ここから追い出されたようですね。
あなたがいなくなれば再び戻ってくることもあるかもしれませんが、家自体がなくなればそれもありえないでしょう。
近頃の家は鉄筋でできていることも多く、あんな小さな体では活躍する場もない。
そんな彼らがどこへいくのか、実のところ私も知らないんですけどね。
なんにせよ、妖が消えるのなら喜ばしく思いますよ。
それを聞きながら、こうして少しずつ妖たちは姿を消してきたのだと、はようやく理解した。
どおりで、この時代ではあまり妖を見かけないはずだ。
妖が住める環境は減っており、また、に関して言えば、を護ろうとする白澤の目の力が働いている。
「あなたが持つ白澤の目には、力が宿っている。あなたを護ろうとする、確固たる意志が。その力は、ただ白澤から目を奪っただけでは宿らない力だ」
そこで一度言葉を切り、的場は聞いた。
「だから、もう一度尋ねます。あなたは何者ですか」

ああ、そうか。そうだったのか。
あのときがほしかったのは、その時点での仁吉の気持ち。
それでも、嘘でも良いから約束してほしいと願ったのは、紛れもなく自分だったはずだ。
けれど、彼はこうして証を残してくれた。
ただ、口約束をして裏切ってしまうこともも可能だったのに。
的場という男は、“これ”を“白澤の目”だと言っていた。
実際に自身が視覚を有するものではないけれど、この証はを守ってくれている。
それならば。

「すみません、本当にわたし、ただの大学生なんです」

もう二度と彼が自分の前に姿を現さなくとも、わたしは彼を永遠に信じていよう。





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20110214