「真さん」
「こは……八重さん」
柔らかい女の声が、背後から掛かる。
真は反射的にその名を呼ぼうとしたが、はっと気付いて言い直した。
「もう、まだ慣れないんですか?」
八重と呼ばれた女性は少し困ったような表情を浮かべて、真の前にお茶を置く。
真は苦笑して、彼女を見た。
「同じ名前を見つけてあげられなくて、すまない」
妙に改まった様子で言う真に、八重はきょとんと首を傾げて彼を見つめ返した。
そして、ふ、と笑う。
「名前のことなんて、気にしなくて良いのですよ」
「けれど、名前は唯一、あの時代から持ってくることのできた、君のものだったのに」
美しい着物も、簪も、家族も。
なにもかもを置いてこさせて、真は彼女をこの時代に連れてきた。
今は“八重”と呼ばれているが、元は“小春”という名前だった彼女。
新しい着物も簪も与えることはできたけれど、戸籍だけは、簡単に用意することができなかったのだ。
それでも真は戦争のどさくさに紛れて、医者という立場を利用し、本当は亡くなっている女性の戸籍をなんとか彼女に与えた。
その名前が、“八重”。
真が元の時代で診ていた患者のひとりである。
その女性の親戚も全て戦争で命を落としているから、ばれることはたぶんないだろう。
様々なリスクを考えると、名前を選んでいる余裕まではなかった。
「名前が変わっても、わたしはわたしです」
しっかりした声で、八重は言い切った。
「真さん。あなたさえいれば、わたしはなにを捨てたって惜しくはないのですよ」
そっと八重の手が、真のそれに添えられる。
しばらく無言で見つめ合って、それから「あ」と八重が声をあげた。
「ごめんなさい、真さん。わたし、嘘を吐きました」
「え?」
せっかく感慨深い気持ちになっていたところを、すぐに訂正されてしまって、真は困惑する。
八重はいたずらっぽく笑った。
そしてそっと、自身の腹の辺りをさする。
まさか、と八重を見つめた真に、彼女は微笑んだ。

『江戸薬師考』 真/著


すべての終わりに





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20110214