表へ出ると、雨はすっかり止んでいた。
どうやら通り雨だったらしい。
これも神の思し召しか。
この雨がなければ、とあの年老いた男が出会うことは永遠になかっただろう。
「さん、本日は本当にありがとうございました」
深々と頭を下げて、十和が言う。
いいえ、とは首を振った。
あるいは、感謝しなければいけないのは自分の方なのかもしれない。
十和、そして実治との出会いは、確かな方向性を伴ってに変化をもたらした。
それがよい結果をもたらすのかどうかは、まだ分からないけれど。
「それにしても、迫真の演技でございましたね」
「そう、なのでしょうか……」
まるで、小春お嬢さん本人のようでした。
そう語る十和に、は苦笑する。
あれは、演技なんかではない。
そもそも、自身ですらなかった。
あのとき確かに、自分は“”以外の何者かであったと思う。
おそらく、“彼女”が“小春”だったのだろう。
ああ、だとすれば、彼女はなんと心優しい女性であったのか。
死してなお、自分の父親を思いやっていた彼女を想って、はそっと目を伏せた。
江戸薬師考
世の中に、ひっそりと出回っている本がある。
とある男が、年をとってから自費で僅かに発行した本。
その男は、いくつかの本は大きな出版社から出しているような小説家だった。
男が自費出版したその小説についても、実はいくつかの出版社から「我が社で是非」と依頼があったという。
だが、男はその本だけはどうしても自費で出版するといって聞かなかった。
彼をそこまでに頑なにさせる本とは、いったいどのような内容だったのか。
説明してしまえば、なんということはない。
江戸を舞台にした時代小説で、テーマはありがちな身分違いの恋であった。
ただ、一風変わっていたのは、主人公の男が本当はその時代の人間ではなく、未来からタイムスリップしてきたという点である。
時は第二次世界大戦の頃、主人公であるその男は軍医であった。
元々はそれなりに裕福な家庭の生まれであったが、父親が亡くなってからはそうもいかなくなった。
数の多い弟妹に、父が亡くなってからすっかり老けこんでしまった母親。
男はひとりでその家庭の生活を支えていた。
戦場近くの宿営地で、来る日も来る日も痛々しい姿の患者を診察する日々。
為す術もなく、次々と死んでいく仲間たち。
自分自身、直接的に危険な目に遭うことは少なくとも、心は痛む。
男の精神は、すっかりまいってしまっていた。
されども、その戦いから逃げることは許されない。
逃げ出せば非国民と罵られ、家に残してきた弟妹も酷い扱いを受けるだろう。
家族を守るため、そして仲間たちを救うため、死に物狂いで働いていた男。
そんなある日、一通の手紙が宿営地に届けられた。
その手紙に記されていたのは、母の訃報。
不思議と、悲しみはあまり沸き起こらなかった。
むしろ、ほっとしたとさえ言ってもいい。
ただ、実家には葬儀を取り仕切れるような人物がおらず、また、親戚付き合いもあまりなかったので、男はいったん家に帰る必要があった。
幸い、男の軍からの信頼は厚く、また、軍医という比較的身分の高い位置にいたため、男には僅かばかりの暇が認められた。
泣きわめく弟と妹をよそに、慌ただしい中なんとか母親の葬儀を終えた男。
彼に残されたのは、空虚感ばかりであった。
ああ、分かっている。
面倒をみなくてはいけないのは母親ばかりではない。
まだ幼い弟妹たちが残っているじゃないか。
けれども、どうしても立ち上がって戦場に戻る気力がない。
与えられた暇はまだ3日ある。
やらなくてはいけないことがまだ山ほど残っているが、はたしてその間に気力が回復するだろうか……。
そんなこんなで、明日にはもう実家を出なくてはいけないという日。
母の遺品を整理するために家中を駆け回っていた時、男は見慣れないものを見つけた。
家の奥にひっそりと佇む、古びた扉。
はて、うちにはもうひとつ部屋があったのだろうか。
疑問に思いながらも、男はその扉に手を掛ける。
そしてその先で彼が見たのは、信じられないことに、本物の江戸の町だった。
まるでなにかに誘われるようにして扉の向こうに飛び込んだ男は、やがて自分がいた世界と江戸では流れる時間が違うことに気付く。
いや、厳密にいえば、男が江戸にいる間、自分のいた世界では時間が流れていなかったのだ。
初めて江戸に行き、こちら側に戻ってきたとき、男はその事実に気付いて狂喜した。
ああ、それならば気力が復活するまで、ずっと江戸にいればいいじゃないか。
この平和な時代ならば、心の傷だってきっと癒えるに違いない。
戦争で心身ともに疲れ切っていたその男が、江戸の町に身を置くようになったのは、もはや必然と言えよう。
男は江戸においても医者を名乗り、生計を立てた。
未来からやってきた男の知識と技術は、当然江戸で有名になり、男はいつしか“名医”と呼ばれるようになっていた。
男は貧しい者からは金を受け取らず、裕福な者からは相場以上の金を要求していたため、それもまた彼を“名医”たらしめていたのだろう。
貧しいものを助け、“名医”と崇められるのは、気分がよかった。
そんなある日、男は“医者”と“患者”として、ひとりの少女と出会う。
それは、“小春”という名前の美しい少女だった。
そして物語は、も知っている話へと繋がっていく。
徐々に心を寄せ合っていく“男”と、“小春”。
だが、武家の生まれの小春と、医者といえど一介の町人である男が結ばれるはずがない。
男と女は恋に落ちたはものの、女には決められた許婚がおり、男はやがて身を引く。
そこまで読み終えて、は、ふう、と息を吐いた。
自分が随分と息を詰めて小説を読んでいたことに気付き、苦笑いする。
けれど、一気に読んでしまわなければ気が済まない。
あと少しだから読みきってしまおう。
彼らの運命と、尊敬する祖父の生き様を知るために。
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20101112