昼下がりの長崎屋。
先生、あれから来ないねえ」
ぼんやりと、若だんなが呟く
その表情は物憂げで、居合わせた手代たちは顔を見合わせた。
今日は朝から体調の良い若だんなであったが、悩み過ぎて体調を崩したらどうしよう。
「はぁ……」
ああ、若だんなが溜息を吐きなすった!
佐助ははらはらと若だんなを見やる。
若だんなはどこか遠い所を見つめていた。
おい、お前さんがなんとかしておくれよ。
そんな意味合いを込めて視線を仁吉に戻した佐助だったが、どうしたことか、その仁吉もどこかおかしい様子だった。
佐助はぎょっとする。
おいおい仁吉、ぽかんと天井なんて見上げてどうした!?
自分だけが蚊帳の外であることなど当然知らず、佐助はひとり途方に暮れた。





江戸薬師考





「やっぱり、私の気持ちは迷惑だったのかな」
「坊っちゃんの気持ちを迷惑に思う人間なんているものですか!」
いち早く反応したのは佐助だった。
いつもならばそれに続く仁吉だったが、今日は黙り込んでいる。
しかしそれを気にした様子もなく、若だんなは佐助に返した。
「そうは言ってもね、佐助、現に先生は顔を見せないわけだし」
「分かりました、それならあたしが先生をお連れしましょう!」
「お、おやめよ佐助……」
さっと立ち上がった佐助を、若だんなは慌てて止める。
べつに、自分は先生を急かすつもりはないのだ。
ただ、彼女としばらく会えていないというのはそれだけで心細く、寂しいのである。
それまで黙って会話を聞いていた仁吉が、はあ、と溜息を吐く。
「それだけ若だんなのことを真剣に考えて下さってるのでしょう。もうしばらく待って差し上げてもよろしいのでは?」
言った仁吉に、若だんなは、おや? という顔を作って彼を見やる。
それに気付いた仁吉が首を傾げた。
「なんです、若だんな」
「いや、珍しいと思ってね」
いつもの仁吉なら、いつまで若だんなの気を揉ませるつもりだといきり立っていたことだろう。
一瞬若だんなの言葉を意味するところを理解できなかった仁吉だが、すぐにはっとする。
そしてそれと同時に、焦りを感じた。
なんだかんだ言いつつ、自分は“彼女”のことを気にしてしまっているらしい。
しかし若だんなはそれを自分の都合の良いように捉えたらしく、柔らかく笑った。
「ふふ、そうだね。もう少し待って……」
若だんなが言い掛けた、そのとき。

「若だんな、先生がお見えになられましたよ」

噂をすればなんとやら。家人に案内されてきたらしい、が部屋の入り口に立っていた。





「みなさんこんにちは」
突然お邪魔してごめんなさい、とが苦笑すれば、若だんなはぶんぶんと首を横に振った。
「今、ちょうど先生の話をしていたところだったんだよ」
興奮気味に言う若だんなに、は曖昧に微笑んだ。
今から伝える内容を思うと心苦しい。
勧められるがままに畳に座り、座布団がないことに気付いた若だんなが佐助に持ってこさせようとするのを、すぐに帰るからとやんわりと止めた。
この時点で、彼はある程度の予想をしたことだろう。
これから、がなにを言おうとしているのか。
僅かに若だんなは表情を強ばらせた。
そのことに気付いたのは、若だんなの顔色を始終気にしていただけで、手代たちはなにか別のことを気にしている様子だった。
ああ、けれどよかった、若だんなは今日も元気そうだ。
いつか仁吉が言ったように、出会った頃に比べれば若だんなは随分と元気な時間が増えたと思う。
もう少し先の世に生まれていれば、彼はそれを当然の権利として手に入れられただろうに。
仁吉はの顔を無表情に見つめた後、黙ってお茶と茶菓子を出してくれたが、それすら手を付けずは深々と頭を下げた。
額は畳に押し付けられ、とる姿勢はもはや土下座である。
「えっ、先生!?」
驚き戸惑う若だんなを目の前に、一呼吸置いて、は重々しく告げた。
「ごめんなさい、婚姻の話、お受けできません」
「なっ、先生、自分がいったい何を言ってるのか分かって、」
先に反応したのは佐助の方だった。
「佐助、およし」
目を釣り上げ立ち上がった佐助を、若だんなが制する。
しかし! となおも言い募ろうとした佐助であったが、若だんなの視線はそれ以上を許さなかった。
「本当に、ごめんなさい……」
先生、どうか顔を上げておくれ」
ひどく柔らかな若だんなの声。
若だんなのその言葉に、はおずおずと頭を上げる。
は酷く泣きそうな瞳で若だんなを見つめた。
そんなに、若だんなは困ったように微笑む。
先生、私では、先生を支えられないかな」
確かに私は体も弱いし、いつ潰えてしまう命かも分からないけど。
先生をきっと幸せにするよ。
穏やかに、それでいて今にも泣き出しそうな声で告げる若だんなに、もまた涙目になる。
しかし、決意は変わらなかった。
静かに首を振ったに、若だんなが黙り込む。
「ごめんなさい……わたし……わたし、故郷に帰ることになったんです」
他にも、告げるべき言葉はあっただろう。
どうせ離れるのだ、若だんなのことは慕っているのだと言ってもよかった。
慕っているけれど、一緒にはなれないのだと。
けれど、が言えたのは結局この一言だけだった。
彼を想うからこそ、彼には誠実でありたかった。
おそらく、この時代で最ものことを目に掛けてくれたであろうこの少年に。
「故郷? ……そういえば、先生の故郷の話は聞いたことがなかったよね。いったいどこなんだい?」
縋るように尋ねられて、胸が痛んだ。
そこにある距離は、物理的なものではない。
人間にとっては気が遠くなるほどの、時間の壁。
彼がどれほど長生きしたところで、決して重なることは無いだろう。
「とてもとても、遠い所ですよ。きっと、若だんなも知らないくらい」
そう、あの場所こそがわたしの生きる世界だ。
わたしは現実を見なくてはいけない。





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20101112