どうして、今までこの可能性に気付かなかったのだろう。
今は亡き祖父の家の奥に、ひっそりと佇んでいた、時を越える扉。
この家の主であった祖父が、その存在を知らないはずもなかったのに。
でも、まさか、彼の人までが同じ痛みを経験していたとは思わなかったのだ。
春になると、ほんの少しだけ寂しそうにしていた祖父。
もしかしたら、小春さんのことを思い出していたのかもしれない。
祖父よりもずっと早くに亡くなったという祖母は、なにも知らずに祖父と結婚したのだろうか。
すべての人々の心を想像して、そして自分の失恋の事実を改めて噛みしめて、はひっそりと涙を零した。
江戸薬師考
「さん、よろしければご隠居に会っていかれませんか?」
「え?」
「あの方は、もう先が長くないのです。……最近では、目もあまり見えず、物忘れも激しくなって、気が落ち込んでばかりでして……」
小春お嬢さんにそっくりなさんとお会いすれば、少しは元気も出るのではないかと思うんです。
だから、お願いします、と頭を下げた十和に、は慌てた。
「どうか頭を上げて下さい」
言ってから、少し困ったように首を傾げる。
「わたしなんかが、川口家のご隠居様にお会いしてもよろしいのでしょうか」
「身分など、関係ないのです。それは、ご隠居自身、身を持って感じられています」
そう、仕方ないとはいえ、身分を気にしたばかりに娘は命を落とした。
それを考えれば、身分というものがいかに邪魔なものであるか、ご隠居はよく知っているのだ。
はほんの一瞬、躊躇った。
けれど。
「……分かりました。それでは少しだけ、お話させていただいてもよろしいですか?」
「! ありがとうございます」
穏やかに頷いたに、十和はさらに深々と頭を下げる。
は苦笑した。
この時代で医者であることはやめた。
けれどやはり、床に伏し、救いを求める者がいれば、それを放ってはおけないのだ。
「実治様に是非会っていただきたくお連れした方がおります」
「入りなさい」
ご隠居の名前は、実治というのか。
返ってきた声は、が想像したよりもずっと穏やかで優しげだった。
「失礼致します」
そう断りを入れて十和が戸を開く。
広すぎない部屋の真ん中には、一組の布団が敷かれていた。
(……え?)
視界に入ったその姿に、は二、三度を瞬いた。
床に伏し、布団から覗く顔は思いの外若い。
ただ、それよりも問題なのは、
(お父さん……?)
はっとして首を振る。
いや、父はもっとずっと若いはずだ。
けれど。
(お父さんに、似てる……?)
小春の父親だというその男は、実にの父親にもよく似ていた。
父があと二十年歳をとったら、こんな感じなのではないかと思う。
偶然?
いや、でも……。
昔尋ねたことのある祖母の名前は、小春ではなかったはずだ。
ならばやはり、偶然なのだろうか。
小春さんと似ているひとと結婚したの?
それとも、数百年の時を経て、川口家の血縁の人間と結婚したとか?
いや、そんなまさか。
そこまで執念深いとさすがに気持ち悪い。
「……小春?」
「……え?」
がそんなことをつらつらと考えていると、実治からそう声が掛かった。
もしかして、わたしのことを呼んでいる?
「小春なのかい!?」
「え、いや、あの……」
やはり、自分のことを呼んでいたらしい。
それほどまでに、小春と自分は似ているのか。
はっきりとした返事をできないに、けれども実治はを小春だと信じて疑わないようだった。
「ああ小春、もっと近くに寄って父にその顔を見せてくれ」
「あの、だから、その……」
(人違いですー!)
いったいどうしたものか。
返事に困り、ちらりと十和の方に目をやると、彼女もまた困ったように微笑んだ。
そしてこっそりと口を開く。
「申し訳ありません。もしお嫌でなければ、小春お嬢さんのふりをしてやっていただけませんか?」
「はあ……」
演技をするのは構わないが、本当にいいのだろうか?
がとりあえず、失礼します、と立ち上がりご隠居の床の横に腰を下ろすと、布団のからよろよろと実治の手が伸ばされた。
ああ、平成という時代にいたならば、もうしばらく元気に生きられただろうに。
はその伸ばされた手をそっと両手で握る。
自分を見つめるその瞳は、とても他人だとは思えなかった。
「小春、小春……」
「……父上さま」
何度も小春の名を呼ぶ実治に、思わずも応える。
しかしなにを言えばいいのだろうと困惑していれば、実治の方が口を開いた。
「小春……すまなんだなぁ……」
ほろり、と実治の瞳から涙が零れる。
「不甲斐ない父を許しておくれ……」
握り締めたその手は、震えていた。
……ああ。このひとはなんて小さくなってしまったのだろう。
そんなことを考えるは、このとき不思議な気分だった。
まるで、自分が本当に小春であるような、奇妙な感覚。
「父上さま、わたくし、父上さまのことを恨んではおりませんわ」
気が付くと、自然とそんな言葉が出てきた。
「わたくし、幸せでしたの。真さまに出会えて、真さまを想って生きられて」
ほんの僅かな間ではあったけれど。
「小春……?」
泣きながら、けれども不思議そうに首を傾げた実治に、“小春”は微笑んだ。
「父上さま、わたくし、素敵な夢を見たんです」
「夢……?」
「ええ。遠い遠い世界で真さまと結ばれて、子どもをもうけて、幸せに暮らす夢」
ね、素敵でしょう?
心から幸せそうに“小春”が笑う。
「父上さまが気に病む必要なんてもうないんです」
とてもとても、幸せでしたから。
「小春、」
「ねえ、だから父上さま、長生きしてね……?」
「小春……!」
実治の言葉を待たず、“小春”はそれだけの言葉を言い残すと、それきり永遠に沈黙した。
そして、はっとに自分が“”であることの感覚が戻ってくる。
「あ……」
気が付くと、の頬には涙が伝っていた。
今のは、なに……?
「あ……小春、小春……」
実治はまるで夢から目が覚めたかのように、から手を離すと、両手で顔を覆って大声で泣き出す。
静かな川口家のご隠居の屋敷に、家の主の泣き声だけが響いていた。
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20100803