「あれから、どれほどの月日が流れたのでしょうか」
しん、と静まり返った部屋に、十和の声が響いた。
江戸薬師考
今は隠居している川口家の前当主には、小春という名前のそれはそれは美しい娘がいた。
前当主は早くに妻を失っている。
そのこともあってか、彼の小春へのかわいがりっぷりといったら、近しい者で知らぬ者はいないほどであった。
もちろん、それほど美しい娘を世間の男たちが放っておく訳もなく。
まだ年頃になっていない頃から、小春への求婚は絶えることがなかった。
しかし、小春のお眼鏡にかなう者はなかなかおらず。
父親は小春を溺愛していたため、彼女が望まなければ、その申し込みはすべて断っていた。
しかし、その行為はやがて裏目に出る。
難攻不落の美女、そんな風に囁かれるようになった小春。
小春のそんな噂を耳にした小島藩藩主が、小春に見合いを申し込んだのだ。
小島藩といえば、南の方にに三十万石もの土地を持つ大名が治める大きな藩である。
その藩主は一目で小春を気に入り、正式に求婚した。
しかも、正室ならまだしも、側室として。
小春は初め、いつものようにその求婚を拒絶した。
だが、この時はいつものように、簡単に求婚を断るというわけにはいかなかった。
かたや三十万石の領地を持つ大名、かたや一万石も持たない一介の旗本。
どうして当時川口家の当主であった小春の父親が、その縁談を断れようか。
そこにある権力の差は、あまりにも大きすぎた。
互いに身分が身分であるため、慎重にではあるが婚礼の準備は着々と進められた。
当然のことながら、小春の意思などそこには存在しない。
酷く沈み込んだ様子の小春を慰める父親。
しかしやがて、小春はその求婚を断ることができなかった父親のことまで拒絶するようになる。
そんな娘と関わる方法も見つけられず、父親も徐々に娘から距離をとっていくようになった。
そして、婚儀までの日取を1年後に控えたある日。
溜まりに溜まった不満は、ついに小春の体調に異常をもたらしだした。
体が、食べ物を受け付けなくなったのだ。
何かを口にしても、水やお茶以外のものはすぐに吐き出してしまう小春。
最初は、その原因が分からなかった。
父親も家臣も慌てふためく。
主治医を含め、何人もの優秀だといわれる医者に診せたが、皆が皆、原因不明だとお手上げ状態。
ならば悪い物の怪にでも取り憑かれたのではないか。
そう思い、有名な広徳寺や東叡寺の法師に視てもうらうが、彼らは口を揃えて「物の怪の仕業ではない」と言うばかりであった。
そんな中、小春を視た法師に教えられたのが、とある町医者の存在であった。
あるとき突然江戸の町に現れた、人気の医者。
その医者の手に掛かれば治らぬ病はないとまで言われる程の名医らしい。
さらに聞いた話によれば、彼は貧しい者からは治療費は取らないそうだった。
代わりに、金を持っている人間からは法外ともいえる治療費を取っているらしい。
その話を聞き、小春の父親は藁にも縋る思いでその医者の元を訪れた。
金ならいくら積んでやっても良い、だから娘の病を治しやってくれと。
はたして、その噂に嘘はなかった。
その町医者は確かに優秀で、小春の病の原因を見事見つけ出した。
彼女が患っていたのは、心の病。
想ってもいない男と婚約させられたことへの苦痛が、彼女の身体をも病ませていた。
そんな彼女の心の病を治すべく、手を尽くした医者。
小春がその医者に想いを寄せるようになるのは、もはや必然的な話だった。
自分を直向きに想ってくれる小春に、やがてその医者も恋に落ちる。
だが、ふたりは決して結ばれることの適わぬ関係。
病が全快すれば、小春は他の男の元へ嫁ぐこととなる。
それならば病など治らなくても良いと願う小春。
その一方で、愛しい女性の病を治してやりたいと医者はより努力する。
そして小春の願いも虚しく、彼女の病は完治した。
それと同時に、医者は江戸から姿を消し、行方を暗ませた。
小春は酷く嘆いた。
それは、小島藩藩主との婚姻が決まったとき以上に。
嘆いて嘆いて。泣き叫んで。
そしてついに、彼女は自らの命を絶った。
家の者が僅かに気を抜いた隙に小春は屋敷を抜け出し、川に身を投げたのだ。
川の下流から小春が好んで履いていた下駄が片方だけ見つかった。
だが、ついに彼女の遺体は見つけられなかった。
彼女の部屋に残されたのは、一通の遺書。
そこには、想い人と結ばれず、好きでもない男の側室にならなくてはならないことへの恨みと悲しみがつらつらと綴られていたという。
「…………」
話を聞き終えて、は絶句した。
彼女の中で、ひとつの仮説が生まれる。
あるとき突然現れた医者。
他のどの医者も知らなかった技術。
心の苦しみが、病へと繋がると知っていた人間?
まさか……まさか。
「……その医者の名前を、お聞きしても?」
は震える声で尋ねる。
それに気付いた様子はなく、十和は寂しそうに微笑んだ。
「真という、とても穏やかな瞳を持った方でしたよ」
「……っ!」
その名前を聞いた瞬間、は思わずその顔を覆った。
ああ、そうか、あの家にあるあの扉は……。
「さん?」
「……すみません、お気になさらず」
様子のおかしいに、十和が声を掛ける。
は首を振った。
……ああ、おじいちゃん。
あなたもわたしと同じように、この時代で苦味を舐めたのですね。
の本名がであり、また彼女自身もこの江戸においては優秀な医者であることを、十和は知らなかった。
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20100422