赤いドロップが出てきたのに、食べてみたらハッカ味だった、というような。
まったく予想外の方向からの衝撃的な台詞に、は固まった。
それは側で控えていた手代たちにとってもそうだったらしく、文字どおり目を白黒とさせている彼らはいつも以上に人間らしからぬ姿だ。
「は。……え……?」
いち早く我に返ったが発した一言は、それでも存分に動揺を含ませている。
というか、それはもはやまともな言葉にはなっていなかった。
「え、あの。嫁って、若だんなの、ですよね?」
「う、うん」
かの発言をした若だんな自身動揺しているらしく、頬を染めてもじもじとしている。
それだけで先程の言葉が冗談でもましてや幻聴でもないと理解したは、問題が解決するどころか新たに増えたことに、内心頭を抱えた。
江戸薬師考
返事は少し待ってほしいと伝えて、は長崎屋をあとにした。
その、帰り道。
雲が天を覆う下、と仁吉はふたり並んで診療所までの道を歩いていた。
つい数時間前までは晴れていたのに、今はもういつ雨が降りだしてもおかしくない様子だ。
まるで自分の心の中のようだ、とは溜息をつく。
そもそも、なぜ自分は仁吉と肩を並べて歩いているのだろう。
「溜息を吐くと、せっかくの幸せが逃げていきますよ」
耳聡くそれを聞いた仁吉か言う。
は苦笑した。
「幸せ、ねぇ」
「若だんなに嫁にきてほしいと言ってもらえるなんて、これ以上の幸せはないでしょう?」
手に閉じられた番傘を持った仁吉は、無表情に首を傾げる。
そういえば、彼が自分についてきたのは雨が降りそうだったからだっけ、とその番傘を見つめながらはぼんやりと思った。
さらに理由を付け加えるのなら、プロポーズの直後、放心状態だったを心配して若だんなが仁吉に言い付けたのだが、はそれを知らない。
は視線を仁吉の顔に移し、彼の表情を見てから呟くように尋ねた。
「それが本当にわたしの幸せだと、仁吉さんは思うのですか?」
自分の声が震えたことに、仁吉は気付いただろうか。
考えてから、は首を振る。
妖の彼が気付かないはずがない。
「……なにが、言いたいんです?」
返す仁吉の顔は、戸惑いの表情に変わっていた。
はなにも答えず、ただ困ったように微笑む。
仁吉は焦ったように口を開いた。
「若だんなの嫁にくれば、なに不自由のない生活ができますよ」
「もし、わたしが本当にそんなことを目的に若だんなの嫁になったとしたら、仁吉さんは怒るくせに」
は、仁吉が渋い顔を作って自分の言葉を肯定するだろうことを期待した。
まあその通りですけどね、なんて、の言葉を肯定するのが不本意だというように。
若だんなを心底大切にしている彼ならば、きっとそうするだろうと。
けれど、結果的に渋い顔を作ることになったのはの方だった。
「怒ったりなど、するものですか」
一瞬、彼がなにを言ったのか分からなかった。
はぎょっと目を見開いて、仁吉を見る。
仁吉は薄く笑った。
「それで若だんなの望みが叶うのなら、あたしはなにも言いませんよ」
あなたなら、本心を悟らせるようなヘマはしないでしょう?
そう付け加えられた言葉に、胸がざわつくのをはたしかに感じた。
この男は、なにを言っている?
これではまるで、
まるで、
「わたしが若だんなに恋情を抱いていないことが、前提のように聞こえるのですが」
「ほう、それではあなたは若だんなを愛しているとでも?」
「それは……」
そこまで口を開いて、言い淀む。
無論、若だんなのことは愛しいと思う。
けれど、その愛情は、いわゆる男女間に存在する愛情ではない。
若だんなに対する感情は、親愛とか、友愛とか、もっとそういった綺麗なものだ。
そもそも、若だんなが自分に抱いている感情は、どういったものなのだろうか。
「もしも先生が、若だんながあなたに抱いている感情がどういったものか気にしているのであれば、それこそ心配は必要ありませんよ」
自分が考えていたことを言い当てられて、はどきりとした。
仁吉は続ける。
「若だんなだって、そこまで疎いわけじゃない」
仁吉には、若だんなの瞳にちらついていた感情に覚えがあった。
照れた様子でありながら、それでもはっきりと浮かんでいた感情。
あれはかつて、皮衣が伊三郎に向けていたものとまったく同じものだ。
「若だんなは、きっとどんな先生だって受け入れて下さいますよ。抱く感情だって、男女間のそれではない方が、うまくやれることもあります」
仁吉の言うことは、たしかにその通りだった。
恋は、その感情が冷めてしまえば、すべてを無にしてしまう。
けれど、そこにある愛が親愛であるのならば、それは永遠に近い。
ぽつり、と。
降りだした雨が、地面に染みを作った。
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20091220