気が付けば、江戸にやってきて1年が過ぎていた。





江戸薬師考





「今日限りで、診療所を畳もうと思います」

がそう告げた瞬間の若だんなときたら。
顔を真っ青にさせて、まるでこの世の終わりでも迎えたかのような表情を浮かべた若だんなに、は苦笑した。
「なんで、どうして……」
それ以外に言葉が浮かばないようで、そう言ったきり口をぱくぱくとさせる若だんなに、は申し訳ない気持ちになる。
「すべて、わたしのわがままなんです。本当に、申し訳ありません」
そう言って、深々と畳に頭を垂れたに、若だんなは慌てた。
「頭を上げておくれよ、先生」
先生に謝罪させたいわけじゃないんだ。
あたふたとした動作でそう告げるが、は顔を上げようとしない。
先生」
そんなを嗜めるように、若だんなの側で控えていた仁吉が彼女の名を呼んだ。
「そのままじゃ若だんながあまりにも哀れですから、頭を上げて下さい」
言われて、そろそろと顔を上げる。
彼の言うとおりだ。
頭を下げているのは単なるの自己満足あって、若だんなにとってはなんら利益などもたらさない。
それどころか、心優しい若だんなにとってはかえって苦痛となってしまうだろう。
(それにしても、)
はちらりと視線だけで仁吉を見やって、思考を沈ませた。
あの日、が熱を出し倒れて、それを仁吉が看病し、なんだか抱きしめられちゃった日から、早いもので1週間が過ぎていた。
あの後、戻ってきた仁吉の態度といえば、すっかり元通りになっていて。
熱があったし、まともな思考が働いていなかったから、ほっとしたといえばほっとしたけれど、がっかりしたのもまた事実である。
(これは、なかったことにされた、ということなんだろうか)
正直、落ち込む。
畳の編目に視線を向けて、そっと目を伏せていると、若だんなが口を開いた。
「もう、決めたことなんだね?」
沈んだの思考を掬い上げるように。
しっかりとした口調で尋ねられて、は頷く。
「はい」
「……理由を聞いたら、教えてくれる?」
「それは……」
こちらの様子を伺うように首を傾げた若だんな。
口こそ開いたものの、はそこで言葉を詰まらせた。
説明しようと思えば、説明できない内容ではない。
あの出来事そのものも、起きた理由も、今となってはすべて理解できるものだ。
ただ、それを客観的に説明できるほどの冷静さが今の自分にあるかと問われれば、答えは否だった。
どうしたものかと沈黙したに、しかし若だんなは微笑んだ。
「いや、いいんだ。先生が言いたくないのなら、無理に聞いたりはしないよ」
「……すみません」
ああ、なんて彼に甘やかされているのだろう。
本当ならば、彼にこそすべてを知る権利があるだろうに。
それと同時に、仁吉があのことを若だんなに話していないのだと気付いて。
こんな時でさえ、若だんなに優しさをもらっているときでさえ、仁吉のことしか考えていない自分に気付いて、いたたまれなくなる。
「今後、どうやって生活していくかは決まっているの?」
若だんなは本当に親身になって心配してくれる。
彼は言葉を続けた。
先生のことだから、しばらくは食うに困らないくらいの蓄えがあるだろうけど」
そう。若だんなの言うとおり、食うに困るということはないだろう。
はこの時代でいくらお金を稼いでもそれを派手に使うということはなかったし、しっかりと溜め込んできた。
けれど。最も問題なのは、医者であることを辞めた今、はこの場所にいる必要があるか、ということなのだ。
理由なく留まり続けるには、この時代はあまりに不便過ぎる。
だが、そうだからといって、はいサヨナラと元の時代に戻るというのも、なんだか落ち着かない。
「あの、ね。先生」
「はい」
若だんなが緊張した面持ちで名前を呼ぶので、もまた真剣な声で返事をする。
「もし、医者を辞めて、今後について考えているならなんだけれど……」
そこで言葉を止めて、若だんなは顔を赤くした。
そんな若だんなを見て、は不安になる。
若だんなったら、言い難い内容を口にするのが心苦しくて、熱を出してしまったんじゃないかしら。
もう彼の主治医ではないけれど、やはり心配だ。
それでも、うう、とか、ああ、とか言いながら若だんなは必死に言葉を紡ごうとするので、もそれを待つ。
そして、意を決したらしい若だんなが口を開いた。

先生、お嫁にこないかい?」





27 ←   → 29






20091009