「鷹成様! いつまでお眠りになっているんですか? 外はいい天気ですよ!」
そんな声がすると共に、室に光が差し込む。
自分を無理やり起こそうとする家臣が、はたしてこの屋敷にいただろか。
「う〜〜……もう少しだけ……」
自分がまだ幼かった頃は、そんなこともあったような気がするけれど。
懐かしい感覚に無意識に微笑んで、まだ微睡んでいたいと、布団を顔まで被る。
すると、頭上から呆れたような声が聞こえてきた。
「そんなこと言って。もうお昼ですよ!」
ああ、これは誰の声だっけ。
母じゃない。祖母じゃない、姉でもない。
この声は…………。
「!」
はっと思い出して布団から飛び起きる。
「…………」
「…………」
「…………?」
「はい?」
ぱちり、と目を瞬いた鷹成に、は首を傾げてみせた。
目の前の存在に、ようやく意識が覚醒した鷹成は意表を突かれたような表情をする。
「女性が、そう気安く男の寝室に入るものではないよ?」
小さな子どもを窘めるように。
叱っているくせに、それはどこか甘くて。
「鷹成様がきちんと起きられたら出ていきますよ?」
だからこそも、彼の言葉を本気では受け取らない。
困ったような表情を浮かべる鷹成を、にこにこと眺める。
「…………」
「…………」
「…………敵わないなぁ」
そう言って苦笑した鷹成に、あたりまえですと、は微笑んだ。
江戸薬師考
「たかなり、さま……」
眠るの口から紡がれた名前に、仁吉は思わず眉を寄せた。
あの男の、夢を見ているのだろうか。
彼女の目尻に浮かぶ涙をそっと拭ってやって、仁吉は無意識に溜息を吐く。
こんなはずでは、なかったのに。
どうして、死んだあの男のことがこんなにも妬ましいのだろう。
この感情の名を、知らないわけではないけれど。
再び溜息を吐いたところで、のまつげがぴくりと揺れた。
起こしてしまっただろうか。
「ん……仁吉、さん……?」
「気分はいかがですか? 先生」
ぼんやりと目を開いたに、仁吉はなるべく穏やかに微笑んでみせる。
は驚きに目を見開き、かばりと起き上った。
その拍子に、額に乗っていたと思しき濡れた手拭いが布団の上に落ちる。
「え、ええ!? 仁吉さん!?」
「はい?」
なにをそんなに驚いているのだろうかと、の額から落下した手拭いを拾いつつ首を傾げる仁吉に、はますます動揺した。
仁吉さんなんでまだここにいるの!? とか。
こんなに穏やかに笑う仁吉さんなんて初めてみたんだけど!? とか。
しかも首を傾げる仁吉さんかわいい! とか。
「あ、あの、ずっとここにいたんですか?」
「? 桶の水を変えに何度か離れましたが?」
そういうことじゃなくって!!
いや、そういうことだけど!
つまり、ずっと傍にいてくれたっていうこと!?
恐る恐るした質問への返答は、驚くべきもので。
嬉しくて。申し訳なくて。それでもやっぱり嬉しくて。
「えっと、一太郎さんのお世話は……」
けれど申し訳なさも残るから、尋ねてみる。
「若だんなのお世話なら、佐助が。あたしたちだって、いつもお世話になっている先生が熱を出したときに放っとくほど、鬼じゃないつもりですが?」
「……そうですか」
それにしたって甲斐甲斐しすぎると思う。
その言葉を、は飲み込んだ。
ここで彼に機嫌を損ねられても困る。
彼に面倒をみてもらえて嬉しいのは、確かだったから。
わたしのこと、少しは大切に思ってくれてるって、思ってもいい?
そう考えた瞬間、不意に目頭が熱くなるのを、は感じた。
ああ、やはり自分は、どうしようもなく彼が好きなのだと。
改めて気が付かされて、絶望する。
この恋が、叶うはずなんかないのに。
「……ねえ、仁吉さん?」
「なんです?」
ほら。こんなにも優しい声、今までに聞いたことある?
「わたし、ひとの命を軽く考えてなんか、いませんでした、よ?」
「はい」
陸陽の残した言葉が、今もの心を苦しめる。
どうしても誰かに聞いてほしかった。
話して、楽になってしまいたかった。
仁吉なら自分を責めてくれるかもしれないと思っていたが、それがもはや不可能になったことを、はどこかで分かっていた。
いっそ責められたほうが、楽になることもあるというのに。
「本当に、本当なんです。ただ、救いたかったんです」
「ええ、ちゃんと分かってますよ」
彼の声は、を傷付けまいと、どこまでも優しい。
その優しさに、溺れてしまいたいけれど。
「……っ、それでも……それでも、鷹成様は救えなかった」
どうして気付けなかったのだろう。
そんな後悔ばかりが、思考を占める。
「きちんとした医者にも、救えない人間はいます」
自分自身を買いかぶりすぎだと、叱ってくれればいいのに。
彼はそうしない。
困ったような表情で、ただを慰めるのだ。
「分かってます、たぶん、わたしが本物の医者であっても、あのひとを救うことはできなかったでしょう。でも、」
そこでいったん、は言葉を切った。
「でも、もしかしたら、と考えずにはいられないんです」
じわりと浮かんだ涙が、目からこぼれ落ちる。
泣き顔を見られるのはいたたまれなくて、は両手で顔を覆った。
「先生……」
どうして。
どうして仁吉さんが、そんなに辛そうな声でわたしを呼ぶの?
そう思った次の瞬間感じたぬくもりに、は顔を覆った手の下で目を見開いた。
「え……?」
全身を包み込まれる感覚。
顔を覆った手の隙間から見えるのは、視界いっぱいの紺色。
背中に感じる体温は、仁吉のものだろうか。
「に、仁吉さん……?」
もしかしてわたし、抱きしめられてる?
彼を呼ぶ声が、思わず上ずる。
「……あたしでは、」
「?」
「あたしの言葉では、先生を慰めることなんてできませんか?」
「…………!」
そんなにも、鷹成という男は、先生にとって大切でしたか。
あまりにも辛そうに紡がれた言葉に、は絶句した。
「死者を想う先生に、生者の声は届きませんか?」
自分がこんなにも彼女を想っても、その声は彼女に届かないのかと。
絶望さえ孕んだその声に、焦燥に駆られる。
「ち、ちがっ……。わたしは。わたしは……」
そこで、は言葉を切った。
どうしたらこの気持ち、伝えられる?
「わた、しは……」
伝えても、いいの?
声が震える。
「……すみません」
「……え?」
いざ言葉を口にしようと瞬間、仁吉にそう謝られて。
は思わず間近にある彼の顔を見上げた。
「先生を、困らせるつもりはなかったんです。……少し、頭を冷やしてきます」
そう言う仁吉のほうが、よりもずっとずっと困ったような顔をしていて。
「えっ、ちょ、仁吉さん!?」
が呼び止めるのさえ耳に入れず、仁吉は部屋から出て行った。
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20091002