すべてが、終わった。
陸陽は姿を消し、その配下であった狐たちももうここにはいないようだった。
何も知らずに眠る屋敷の女房たちは、朝になったら大騒ぎするのだろう。
畳の上に座り込んでいたに、仁吉が近付いた。
先生、帰りましょう」
「かえ、る……? どこへ……?」
仁吉が差し出した手を、はぼんやりと見つめる。
元の時代の雑然とした街の様子が、ちらりと頭をよぎって消えた。
ビルが、車が、あの星の見えない夜空が。
そうだ、あれはたしかに自分の帰るべき場所のはずだ。
「どこって、江戸に決まってるでしょう」
「えど……」
言われて、はっとする。
ああ、ここはあの世界ではなかった。
どこか魂が抜けたような様子のが仁吉の手を掴む様子はない。
仁吉は溜息を吐くと、自ら彼女の手を掴み立ち上がらせた。





江戸薬師考





雨のそぼ降るもののけ道を、仁吉はの手を引きながらひたすら歩いていた。
もののけ道にも、雨は降るのか。
今夜降ることが分かっていれば、傘を持ってきたのに。
現実世界は現在真夜中なので、どこかで買うということもできない。
宿という宿はもう閉まっているだろうし、今はただ、一刻も早く江戸に着くよう歩き続けるしかなかった。
仁吉は心の中だけで軽い溜息を吐く。
繋いだの手が、異様に冷たい。
長く雨に打たれて体温を奪われたのだろう。
あのような出来事があって心身共に疲れているだろうに、は文句ひとつ口にはしなかった。
いや、文句を口にしないどころか、京を発って以来、彼女は一言も喋っていない。
ただ仁吉に手を引かれるまま、暗闇を歩き続けている。
今ここで手を離せば、彼女は死ぬまでこのもののけ道を彷徨い続けるのだろう。
先生」
仁吉は彼女の名前を呼んだ。
しかし彼女から反応は返ってこない。
今度は立ち止まって声をかけた。
もまた動きを止めたが、しかし言葉を発することはなかった。
いよいよ仁吉の眉間にしわができる。
先生!」
ぼんやりと、が顔を上げた。
彼女の表情を見たところで、ようやく仁吉はの異常に気付く。
「あの男の死は、そんなにもあなたの心を掻き乱しましたか」
ぐにゃりと、の表情が歪んだ。
それは、悲しみとも嘲笑ともいえぬいびつな表情だった。
「わたしは、いったいなにをしていたのでしょうね」
ぽつり、とが呟く。
仁吉はなにかを答えようと口を開いたが、彼女の言葉の意味を計りかね、沈黙した。
「わたしは、なにも分かっていませんでした」
いや、違う。
本当はずっと分かっていた。
誰に言われるよりも先に、己の罪深さを知っていた。
知っていたのだ、いつか来るだろうこの日を。
だからあの火事の夜に願ったのだ、少しでも長く彼らと共にあれるようにと。
「江戸に帰ったら、診療所を畳もうと思います」
静かに告げたに、仁吉は眉を寄せた。
「なぜです、陸陽の言うことなど、」
気にする必要もないでしょう。
そんな仁吉の言葉を遮るようには微笑んだ。
濃い疲れの滲む笑みだった。
「診療所を畳むのは、わたし自身がもう医者であり続けられないからですよ」
いつか自分の手では負えない患者が現われることは、そもそも予想していたことだった。
それがいつになるのか、そしてそのとき自分がどうするのかまで考えてはいなかったけれど、これではっきりした。
自分が“先生”であり続けることは、不可能だ。
「それは、あの男が言っていた未来の薬とやらと関係があるんですか」
「!」
仁吉の質問に、の肩がぎくりと揺れる。
彼女の動揺を、仁吉は見逃さなかった。
だが、仁吉はのその行動に訝しむ風でもなく、はあ、と溜息をつく。
「意外と馬鹿ですね、先生」
「はい?」
訝しげに眉を寄せたのは、の方だった。
なぜ、ここで馬鹿扱いをされるのだろう。
次の台詞を待って、は仁吉の言葉に耳を傾ける。
「あなたがただの人間ではないことくらい、我々は知っていましたよ」
「え……?」
ぎょっと目を見開いたを、仁吉は呆れたように見つめた。
「お忘れかもしれませんが、これであたしも結構長く生きている妖なんでね」
ああ、そういえば。
その言葉だけで、はすべてを察した。
なるほど、それなら自分は、
「あなたの持つ気配も、あなたが用意する薬も、この世に存在するものではないことくらい、分からないはずがない」
「…………」
続けられた説明に、は沈黙する。
どうしようもないな、と心の中で誰かが囁いた。
「分かっていて、先生にすべてを託したんです。あなたの持つ技術は、確かに若だんなに必要だった」
「そう……でしたか」
はは、とは気が抜けたように笑った。
けれど、そうであったとして今更なにも変わらないのだとは思う。
彼女が憂いてるのは、秘密がばれていたことでもなく、鷹成を救えなかったことでもなく、己が真の意味で医者ではなかったことなのだ。
「それでも、わたしは、」
言いかけたところで、言葉が途切れた。
先生……?」
訝しげに声をあげた仁吉の目の前で、の身体がぐらりと傾く。
先生!」
己のほうへ倒れこんできたを受けとめた仁吉の叫び声は、ただ虚しく森に響いた。





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20090203