ぽっかりと浮かんだ満月の下を、白い神獣が駆け抜けていた。
なにをこんなに焦っているのだ、とそれは自身に問う。
いや、深い意味などありはしない。
これは自分が大切に仕えている若だんなの願いであって、それを叶えるべく自分は必死なのだ。
言い聞かせてほっと息をついたが、ならばなぜそんなに急いでいる、と再び問い掛けるの声があった。
それは早く若だんなを安心させてさしあげたいから。
そう答えて、再び安堵する。
そうだ、自分は大切な大切な若だんなのために生きている。
それ以外の理由など、ありはしないのだ。
本当に?
誰かが尋ねたのに、仁吉は聞こえないふりをした。
江戸薬師考
蝋燭の僅かな灯りに照らされて、ぼんやりと影だけが浮かび上がる。
部屋には、一組の男女がいた。
「ねえ、私たちはきっと良い夫婦になれる。そう思わないかい?」
「…………」
囁くような男の台詞に、は沈黙した。
俯いて、自由ではない手を握り締める。
しかし男の方はそれを気にした様子もなく、そっとの方に手を伸ばした。
「やっ……」
は可能な限り身を引き、男の手から逃れようとする。
だが、そんな僅かな抵抗など意味があるはずもなく。
男の手がそっとの頬に触れ、優しく包み込み込んだ。
「鷹成様、お願いです、やめて下さい」
の表情が不安に歪む。
「どうして?」
明らかに怯えた様子のに、鷹成は心底不思議そうな顔をした。
「わたしは、こんなこと望んでいません」
声が震えそうになるのをこらえながらなんとか言葉を紡ぐが、鷹成にはの言い分など通用しないようだった。
「大丈夫、最初は怖いかもしれないけれど、あとは何も考えられなくなってくるよ」
そういう問題じゃない! というの叫びは、声になる前に掻き消えた。
強く、それでいての身体に衝撃がないように腰に手を添えられながら、肩を押される。
舌を噛みそうになって、はとっさに目と口を閉じた。
手足を拘束されていて、抵抗できないはあっさりと寝床の上に転がされる。
「ねえ、こっちを見て?」
言われておそるおそる目を開ければ、黒い瞳と視線がかち合う。
その瞳の奥で揺れている、欲を含んだその感情を見つけて、おののいた。
はもうどうしたらいいのか分からなくて、うろたえる。
目にじんわりと涙が浮かんできた。
「どうして……どうして」
うわごとのように紡いだ言葉に、鷹成は少しだけ困ったような顔をする。
「君がいとしいからだよ、」
本当に、本当にいとしそうな声で囁かれて。
けれどそれはどこか狂気を孕んでいて。
はふるふると首を振った。
どんなに望まれても、彼の想いに応えることはできない。
同じ気持ちを返すことはできない。
どうして、こんなことになったのだろう。
「それに私にはもう、あんまり時間が無い……」
「え……?」
鷹成が小さな声で呟いた。
しかしそれはに話し掛けているというよりは、自分に言い聞かせているような様子で。
それはどういう意味かと尋ねる間もなく、鷹成の手はの着物の襟に伸ばされた。
「やっ、やめて……」
するり、と着物を引っ張られて、肩が外気に曝け出される。
ひやりとした部屋の空気が、の肩を撫でた。
そこに、鷹成の人肌が触れる。
手枷のせいでろくに抵抗もできないの目から、ぼろりと涙がこぼれ落ちた。
「、泣かないで」
「おねっ、お願いですからもうやめて下さい……お願いですから……」
鷹成の声はこんな最中にも酷く優しげで、だからこそよりいっそう悲しかった。
そんな優しげな声で、どうしてこんな酷いことをするのだろう。
「、愛しているよ、……」
しかし、ついに鷹成は止まらなかった。
胸元まで着物をはだけられて、は羞恥心に目を強くつむる。
着物の帯に、手がかけられた。
こんなの、嫌だ。
「だっ、だれか助け……助けて、助けて……」
この屋敷にを助けてくれる人物など誰もいないと知りつつも、の口からはそんな言葉がこぼれる。
鷹成が切なげに目を細めた。
「……」
「助けて、助けて、仁吉さん……」
は鷹成の声など聞こえない様子で助けを請う。
ぴたり、と鷹成の手が止まった。
「仁吉……?」
「あ……」
鷹成の眉間に、しわが寄る。
は無意識に男の名前を紡いでいたことに気付いて、はっとした。
「男の名前だね。だれなんだい、その男は」
「…………」
聞かれるが、は答えない。
答えられるはずも、ない。
ああ、こんな時に名前を呼んでしまうほど、自分は彼を頼りにしていたのか。
そんな自分に、絶望した。
それでも、と仁吉の関係は、医者と患者の使用人でしかなかった。
そう思えばますます切なくなって、涙が溢れてくる。
「仁吉さん、仁吉さん、仁吉さん、助けて仁吉さん……」
ここにはいないと分かっていても、呼ばすにはいられない。
鷹成の瞳に、嫉妬の色が宿った。
「どこのどいつなんだい、その仁吉とかいう男は」
感情的になった鷹成は、思わず我を忘れて怒鳴るように問う。
その声に、はびくりと身をすくませ、目を瞑った。
次の瞬間、
「あたしですよ」
そんな台詞と共に、部屋の障子がスパン! と開かれた。
「え……? 仁吉さ……?」
たった今思い浮かべて、名前を呼んでいた人物が目の前に現れて、はぽかんとする。
「なに!?」
それを聞いて、鷹成が驚いたように仁吉の方に目をやったる。
「お望みどおり助けにきてさしあげましたよ、先生」
その、労るような仁吉の声に。
は目を見開き、鷹成は鬼のような形相で仁吉を睨み付けた。
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20090112