「あなたが先生ですね」
長崎屋からの帰り道、ふいに呼び掛けられては振り返った。
「どちら様ですか?」
振り返った先には、笠を被った男たちが数人。
顔は笠でよく見えない。
どことなく品のある出で立ちをしているが、その声に聞き覚えはなかった。
「我らが主人が、あなたにお会いしたいとのことです」
「ご病気なんですか?」
なんとなく引っ掛かりを覚える相手の要求に、は首を傾げる。
相手は答えなかった。
「あの、」
不審に思って眉を寄せた瞬間、ちらりと笠の端を持ち上げた男と目が合った。
なにか言おうと思って口を開いたが、なぜか言葉が出てこない。
それでもなんとかしようと息を吸った瞬間、ごっ、と首の後ろに衝撃を感じた。
「な、」
痛い、と思う余裕もなく、世界が暗転する。
「どうかご無礼をお許し下さい、様……」
そんな声を、最後に聞いた気がした。
江戸薬師考
「先生遅いねえ」
前回が長崎屋に来たときより、数日が経っていた。
再び訪れた定期健診という名のお茶会だったが、待てど暮らせど肝心のが来ない。
「まったく、若だんなをお待たせするとは。また猫にでもなってるんですか、あの人は」
「猫?」
佐助の言葉に、若だんなが首を傾げる。
「いえ、こちらの話です」
さっと仁吉がごまかした。
あ、そういうえば彼女が猫になってしまったときのことは若だんなには言ってないんだったと内心慌てた佐助を、仁吉が冷たい目で睨む。
その視線に佐助は首をすくめた。
同じ妖の佐助でさえ、仁吉を怒らせると恐ろしい。
「しかし、本当にどうしたんだろうね」
若だんなの声が、心配そうなものに変わった。
仁吉と佐助が顔を見合わせる。
妖の彼らでさえ、若だんなの心中は容易に察することができた。
暫しの沈黙の後、はぁ、と溜息が室内に響く。仁吉のものだった。
「分かりました、あたしが様子を見てきましょう」
このまま黙っていたら、若だんなが自分で迎えに行くと言いだしかねない。
そうなる前に、仁吉は自ら名乗り出た。
「おや仁吉、行ってくれるのかい」
ほんの少し意外そうに、若だんなが顔を上げる。
仁吉は首を傾げた。
「なにか?」
「いや、なんでもないよ」
若だんなは笑っていた。
自分が気に入っているを仁吉にも認めてもらえた気がして、嬉しかったのだ。
仁吉は一瞬怪訝そうにに眉を寄せたが、すぐに表情を戻すと軽く挨拶を残して室を出ていった。
「先生がいない?」
「ええ、数日前から姿が見えないようで」
仁吉が診療所の前に着くと、そこには人集りができていた。
集う人々はみな一様に困ったような表情を浮かべており、診療所の前をうろうろとしている。
中には茄子などを手に持った者もおり、落ち着かない様子はなんとも滑稽だ。
ただ立っていてもなにか情報を得ることはできるはずがなく、診療所のあたりをうろついているうちの一人にことの次第を訪ねる。
そして得られた情報が、の不在というわけだ。
「数日前からというと、いつのことです?」
「さあ、あっしも詳しくは知りませんで」
聞けば、仁吉が訪ねたその男もついさっきここに来たばかりなのだという。
頼りにならない男だと心の中で悪態を吐いていると、もし、と仁吉に声を掛けてくる者があった。
「先生は、三日前の午頃からいませんよ」
声を掛けてきたのは、質素な身なりの女だった。
彼女の言うところによれば、彼女はここしばらく毎日診療所に通っていたのだという。
その日彼女は午前中最後の患者で、その後が診療所を閉めて出掛けるところを見たそうだ。
はて、と仁吉は考える。
三日前といえば、は午後から長崎屋に若だんなの健診に来ていた。
例のごとく若だんなが彼女に昼餉を誘っていたから、午前の診療が終わった後にが向かった先はおそらく長崎屋だろう。
少なくとも、そのときまでは彼女の目撃情報があるわけである。
普段、は長崎屋から早く帰れば再び診療所を開けていたはずだから、彼女が消えたとしたら長崎屋からの帰宅途中か。
なにも言わずに旅に出たか故郷に帰った可能性も否定できないが、それにしたって貼り紙も無しに診療所を空けるとは彼女らしくない。
今日だって若だんなの健診が入っていたわけだし、自分たちに何も告げず突然仕事をすっぽかすことなど、彼女はしないだろう。
彼女は己の仕事に信念を持っていた。
患者を裏切るような真似はしないと、信用できる。
ともすれば、彼女の身になにかあったと考えるのが自然で。
「まったく、あの人は……!」
言葉はいかにもを責めるようであったが、彼の表情にを心配する心情が滲み出ているのは、誰の目から見ても明らかだった。
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20080829