「おや、いらっしゃい、先生。今日は往診の日じゃありませんよね」
「あ、こんにちはおたえさん。今日は個人的に若だんなに会いに来たんです」
その日、長崎屋の店先には珍しくおかみのおたえが立っていた。
彼女はを見つけると、にこやかに声をかける。
もまた笑顔を返すと、おたえは嬉々とした表情を浮かべた。
「まあまあ! 一太郎が喜びますよ。どうぞ上がってくださいな」
「ありがとうございます。……あ、そうそう、厨を少々お借りできませんか?」
「厨を? なにかお作りになるんですか?」
おたえが不思議そうに首を傾げる。
「ええ、わたしの故郷の滋養のある食物なんですが、是非若だんなに食べていただこうと思いまして」
持参した食材の入っている紙袋を見せながら、がそう告げた。
「あら、そうでしたか。それならどうぞお使いになって」
おたえは納得したように頷く。
「ありがとうございます」
はにこりと笑って一礼すると、厨のある奥へと入っていった。
江戸薬師考
「ささ、一太郎さん。たーんと召し上がれ」
「先生?」
「はーい?」
にこやかな笑みを浮かべるとは対照的に、若だんなは戸惑ったような表情を浮かべていた。
目の前には、朱色をした粥のようなもの。
どうやらが作ってくれたらしいそれは、若だんなが見たことのない食べ物だった。
「これは、どんな食べ物なんだい?」
「あ、やっぱり見たことありませんか。わたしの故郷では結構食べられてるんですけど。トマトと鶏肉のリゾットです」
「とまと……? りぞっと……?」
たどたどしい発音に、は思わず表情がゆるんだ。
かわいらしいなぁとにこにこしながら、は説明するために口を開く。
「この赤いのはトマトといってですね、甘酸っぱい味で、とても栄養のある野菜なんですよ。リゾットというのは……まあ、粥みたいなものですかね」
トマトが赤くなると医者が青くなる、ということわざが外国には存在する。
それほどまでに、トマトの栄養価は高いのだ。
「味はわたしが保証しますから、どうぞ一口食べてみてくださいまし」
の言葉に、若だんなはおそるおそるといった様子で口元にれんげを運んだ。
他でもない、が自分のために作ってくれたものである。
たとえ見たことのない色をしていても完食せねばならない。
ふうふうと熱を冷まして、口に入れる。
そして、
「おいしい……」
驚いたような、若だんなの声。
まじまじと、皿の中の“りぞっと”を見つめる。
そんな様子を見て、は若だんなが見ていたならばうっとりとしただろう表情で微笑んだ。
「気に入っていただけてよかったです。まだたくさんありますから、どんどん食べてくださいね」
消化に良いように、トマトの皮は火であぶり、冷水に浸して剥いた。
米は長崎屋に来る前にある程度煮ておいたし、鶏肉も歯を使わなくてもほぐれるくらいじっくり煮込んだ。
玉ねぎだって飴色になるまで炒めたし、完璧だ。
若だんなの食は、驚くほどよく進んだ。
途中、お茶を出しにきた仁吉が目を見開いたくらいである。
「先生、いったいどんな術を使ったんですか」
「ふふ、ナイショです」
楽しそうに、が笑った。
仁吉はなんとなくむっとしながら、の横の紙袋に目を向ける。
「それは……?」
「おや、見つかってしまいましたか。若だんなが食べているものの食材のあまりですよ」
は紙袋を手に取り、袋の口を開けて中を見せた。
「唐柿……?」
中身を見て、仁吉が呟く。
「ご存知でしたか」
そう、この時代、トマトは唐柿と呼ばれている。
長崎屋ならもしかしてとも思ったが、江戸時代においてトマトはまだ珍しい。
それに、この時代トマトは食材ではなく、観賞用の植物である。
日本でトマトを食べるようになったのは明治以降で、しかも日本好みの味に改良されたのは昭和になってからのことだ。
わたしが今若だんなに食べさせているようなトマトは、ここには存在しない。
「仁吉さんも食べてみますか?」
「いえ、あたしは、むぐっ」
若だんなが食べているのを見るだけで満足です、と言い掛けた仁吉の口に、はトマトを丸々一個押し込んだ。
誰がリゾットの方だと言ったかと聞くような目で、が微笑む。
「どうです? おいしいでしょう?」
「…………」
仁吉は自分が一口齧った生のトマトを片手に持つと、恨みがましい目でを睨んだ。
しかしそんな冷たい視線にはまったく動じていないようで、仁吉を見ながらにこにこと笑う。
「あいにく、あたしの口には合わないようです」
ぶすっとして言った仁吉に、と若だんなは同時に吹き出した。
お互い顔を見合わせて笑う。
仁吉がトマトを嫌いになった瞬間だった。
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仁吉はツンデレなうえにトマト嫌い、っと。
20080722