文月。
この時代の暦の上では秋とはいえ、新暦であっても葉月に相当するこの時期は、まだかなり暑い。
虫除け効果のある藍染の浴衣を着たは、天高く昇る太陽を仰ぎ、溜息を吐いた。
「クーラーが恋しい……」
文明ってスバラシイ。
なくなって初めてありがたみが分かる。
文明の利器に慣れてしまうなんて恐ろしいなぁと思いつつ遠い目をする。
それでも、日本の風土に合わせて作られた浴衣というものを着ているだけまだましだ。
あとは風鈴の音で暑さを紛らわせ、診療所の表に水を撒くくらいしかできない。
どんなに暑くとも、むしろ暑いからこそ本日も開業している診療所の前で、左手に水桶、右手に柄杓を持ったは再び溜息を吐いた。





江戸薬師考





先生、あっしと一緒に、不忍池に蓮を見に行きませんか」
「蓮?」
ある日、診療所に来た患者のひとりにお誘いをうけたは、きょとんと首を傾げた。
ああ、そういえば蓮が咲く季節だよなぁ、なんて思いながら、患者の男に風邪薬を用意してやる。
どうやら彼は夏風邪をひいたらしい。
「ええ、不忍池の蓮はそりゃあもう綺麗で。もちろん、先生の方が美しいですがね」
「うふふ、三郎さんったらお上手ですねえ。でも、体調がよろしくないんですから、寝ていなくてはだめですよ?」
交わされる言葉が社交辞令であることを理解しているは、三郎の台詞を笑ってさらりと流した。
しかし三郎はめげない様子で、なおもを誘う。
「それじゃあ、風邪が治ったら一緒に行ってくれますか?」
「え? うーん……」
どうかしら、とは思案げな表情を浮かべた。
の仕事は、基本的に忙しい。
特に暑いこの時期は、夏バテやら熱中症の患者が後をたたないのだ。
先生が江戸に来たのは昨年の神無月のことだから、蓮はまだ見ていないでしょう」
それはそうだ、と思う。
この先どれほど江戸にいるかは分からないのだし、せっかくこの時代にいるのだから季節の行事を楽しむのもオツかもしれない。
そう思って返事をしようとした瞬間、
「ほう? 不忍池の蓮見に先生を誘えるだけの金があるなら、先に診療代を払ったらいかがですか? 三郎さん」
「げっ、仁吉さん!」
突然現れた長崎屋の手代に、三郎は引きつった表情を浮かべた。
長崎屋の手代である仁吉はわりと有名で、三郎もまた彼を知っているらしい。
仁吉は皮肉っぽい表情を浮かべながら、の横の机に置いて数本のキュウリの中の一つを手に取り、にやりと笑った。
「で、どうするんです?」
「は、ははは……やっぱりやめときます!」
仁吉の表情に、さらに顔をひきつらせた三郎は、にもらった薬を持つと、さっさと逃げ出してしまった。
なにが起こったのか分からなかったは、その後ろ姿を見送って、不思議そうな顔をする。
「仁吉さん?」
その表情のまま仁吉を見上げると、彼はなぜだか呆れたような顔をした。
先生、なぜはっきりと断らないんですか」
「は? 断る?」
いや、承諾しようと思ってたんだけど。
そう思いながら不審げに眉を寄せる。
そんなを見て、仁吉もまた眉を寄せた。
先生、さっきの男を慕っているのですか?」
「いえ、特にそういった感情はありませんけど」
恋愛感情を聞いているのであれば。
付け足してから、なんだか話の様子がおかしいとは首をひねった。
仁吉はを訝しむように見てから、はっとしたような表情をする。
先生、まさかとは思いますが……」
「?」
「不忍池の蓮見の誘いが、どんな意味を持っているのかご存知で?」
「どんな意味といいますと?」
が問い返すと、仁吉は盛大な溜息を吐いた。
なるほど、なにかおかしいと思えば……なんてぶつぶつ呟きながら、疲れたような表情をする。
はそんな仁吉の様子にいよいよ不安になって、尋ねた。
「もしかして、なにか特別な意味でもあるんですか?」
仁吉はそんなをちらりと見て、口を開いた。
「不忍池に蓮を見に、といえば、連れ込み宿へ誘うときの常套句ですよ」
「つっ……!?」
連れ込み宿!?
それって、あれだよね!?
現代でいうラブホテル……。
妖は恥じらう様子もなく直球だ。
唖然としているを尻目に、仁吉は続ける。
「不忍池付近には出会茶屋が集中していてですね。江戸で生まれ育った人間ならピンとくるものなんですが……」
そういえば、先生は江戸に来てまだ一年も経っていないんでしたね。
仁吉が話すのをぼんやりと聞きながら、あのタイミングで仁吉が来てくれて本当によかったと思うなのであった。





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たぶん若だんなも知りません。
20080721