葬儀や遺品の整理など、すべきことを全て終わらせて、私はドクタケ城の帰路についていた。母が亡くなったことは文で稗田八方斎様に伝えてあり、忌引きで長期の休みとることができることになっているので、仕事は暫くは大丈夫だろう。行きとは違い、急ぐ気にはならなくて、馬も利用せず私はただひたすら歩いていた。歩くのももう七日目なので、そろそろあの町が見えてくるだろう。三人の忍たまと、半助さんと、出会ったあの町が。
 ふいに前方に知った気配を感じて、私ははっと立ち止まり顔を上げた。
「お帰りなさい、さん」
「…………」
 たった今思い浮かべていた人物が目の前に立っていた。彼はもう既に何もかもを知っているという様子で、私を労わるような微笑みを浮かべる。言うべき言葉が見つけられなくて、私は無言で頭を下げた。
 灰色の空から、雨が降り始めていた。



その手のひらで踊ってやるよ




 どういうわけか、私は今、半助さんの借りている長屋にお邪魔している。
「すみません、普段長く家を空けているものだから薪を切らせていて……」
「……いえ、お気遣いなく」
 あの後急速に強くなった雨で、私と半助さんはすっかり濡れ鼠になってしまっていた。私が町に借りていた長屋は引き払ってしまっており、仕方ないドクタケまで急ぐかと思った矢先、こうして半助さんからお家への招待を受けたわけである。
 玄関先で髪を滴り落ちる水を絞り、紐で一つに括ったところで、私はある問題に突き当たった。水を含んですっかり重くなってしまった小袖はどうするのか。脱げば下は当然襦袢である。妙齢の女性が男性の前で下着姿とは如何なものか。私は細帯に手を掛けたまま動きを止めた。
さん?」
「…………」
 そんな私の様子に気付いた半助さんが不思議そうに首を傾げる。私が脱ぐことなんて気にならないのだろうか。私は悩んでいるのが急に馬鹿らしくなり、思い切って細帯を解き、なんでもないですよという風を装って小袖を脱いだ。
「あ、あの、さん」
 ここでようやく半助さんは私が先程何故動きを止めていたのか気付いたらしい。だが私はそれに気付かなかったふりをし、脱いだ小袖を細く折り畳んでぎゅうっと絞った。半ばヤケクソだった。
「その、気付かなくてすみません。うちにはお貸しできるような着物も無いのですが……」
 布は大変高価である。着物を一つしか持っていないというのは別に珍しいことではない。まして普段は忍術学園の先生用の服を着ている半助さんからすれば、そう多く必要な物でもないのだろう。
「大丈夫です。襦袢はさほど濡れなかったみたいですから」
 私はにっこりと笑い、半助さんが意図しただろう言葉からは少しずれた台詞を返した。大丈夫、裸じゃないし、恥ずかしくない。恥ずかしくないったら恥ずかしくない。家にいるときは襦袢が寝間着だったし。私は心の中で自分に言い聞かせる。こういう時は恥ずかしそうにしていた方がより恥ずかしいものだ。
「手拭いぐらいしか用意できませんが、これで頭でも拭いてください」
 半助さんは草履を脱ぐと先に部屋に上がり、やや大きめの白い手ぬぐいを持ってきてくれた。
「ありがとうございます」
 私は手拭いを受け取り、草履を脱いで半助さんの家に上がった。



 私たちは火の点いていない囲炉裏を挟んで向かい合わせに座った。ここ数日涼しい日が続いており、夜ともなれば火がないと寒いほどだった。私は膝を抱え、身体を小さくした。少しでも身体から熱を逃がさないようにしたかったこともあるが、この体勢ならば襦袢姿でも少しはましになるように思えたのだ。
「寒いですか?」
 ちらりとこちらに視線を寄越して半助さんが問う。寒いかだって? 気温自体が低い上に、纏っている襦袢がほんのり濡れているのだ。寒いに決まってる。暑さや寒さに対する耐性は努力したってできるものではない。けれど、プロのくのいちとしてのプライドが素直に頷くことを許さなかった。だから、私はわざと余裕そうに半助さんに笑いかけた。
「寒いと答えたら、半助さんが温めてくださるんですか?」
「構いませんよ。どうぞ?」
 思った以上にさらりと返されて、仕掛けたはずの私の方が一瞬戸惑う。そうだった、彼も忍者だった。忘れていたわけではないのだが、この人の傍ではつい気を抜いてしまうことがある。半助さんの方を見ると、彼はこちらをからかうような笑みを浮かべ、両手を広げていた。ちなみに半助さんは袴しか履いておらず、上半身は裸で首から手拭いだけを掛けた状態である。どうせ実行できないだろうと思われているのだろうか。なんだか悔しくて、私はすくっと立ち上がった。たぶん、私はこのとき、少し意地になっていたのだと思う。そして本当に寒いというのも、少しだけあった。
 なるべく動揺を悟られないようにして静かに動く。たった四歩で半助さんの前まで辿り着いた私は、彼の組んだ胡坐にできている隙間の部分に前を向いてさっと座った。背後から半助さんが僅かに息を飲んだ気配が伝わってきて、私はなんだか嬉しくなる。そうよ、私は翻弄されっぱなしの女じゃないの。やるときはやるのよ。その勢いのまま、私はえいやと背中を半助さんに預けた。本来なら緊張する場面であるのだが、背中から暖かい温度がじんわりと伝わってくる心地よさに、私はほっと肩の力を抜いた。思い切って良かった。
 頭の後ろで半助さんが小さく息を吐く。次の瞬間、後ろから半助さんの腕が回ってきておなかの前で手を組んだので、おや、と思った。組んだ手が私を更にぎゅうっと引き寄せて、私の背中と半助さんの胸が密着する。半助さんは顎を私の左肩に乗せて口を開いた。
「……少し、無防備すぎやしませんか?」
「そうですか?」
 私は首を傾げた。耳に掛かる半助さんの吐息がくすぐったい。
「ええ。さんはもう少し、私を警戒した方がいいと思いますよ」
 学校の先生が生徒を諭すように言う。まあ、実際に彼は教師な訳だけれども、私は生徒じゃない。
「半助さんを?」
 いつかのお返しというように、私はふふっと笑った。このとき、私は不思議とリラックスした気分だった。だが次の瞬間、そんな気分は一瞬にして吹き飛ぶ。
「そうです。私は男で、あなたは女性なんですから。そんな襦袢姿で私を惑わせて、どうするつおつもりで?」
 半助さんの声が、色を含んだような、低い声に変わったのをはっきりと感じた。はっとして身をよじり振り返ると、至近距離で半助さんと目が合う。後ろから抱き締められているのだから当たり前だが、あまりの近さに私は腰が引けそうになった。……それは私のおなかのあたりで組まれていた半助さんの手によって阻止されたが。
さん」
 穏やかな声が私の名前を呼ぶ。聞きなれた響きであるはずなのに、何故か肌が粟立った。半助さんの目を見つめたまま、視線が逸らせない。ゆっくりと半助さんの顔が近付いてくる。やがて彼の顔が焦点を結ばないほどになっても、結局私の思考はそれを拒否するという判断には至らなかった。やわらかく私の唇に触れた半助さんのそれが、一瞬だけ私の反応を伺うように離れる。嫌だとは思わなかった。嫌なはずがなかった。それでも己の立場を考えれば拒絶するべきなのかもしれないと悩んでいるうちに、再び唇が重ねられる。静かに上下の唇が合わせられ、上唇をやわやわと食まれ、それから僅にに歯を立てて甘噛みされた。ちろりと上唇と下唇の間を舐められた感覚に思わず唇を開けば、その隙間から半助さんの舌が入り込んでくる。
「んっ……」
 自分の意思とは関係なく漏れた甘い声にぎょっとして顎を引こうとすれば、半助さんの左手が私の頭の後ろに移動してそれを止めた。戸惑う私を宥めるように、彼は指の腹で私の頭の地肌を撫でながら髪をすいていく。そのあまりに甘やかな感覚に胸が震えた。歯列を舌先でなぞられて、舌を吸われて軽く噛まれる。気が付けば夢中になって彼と唇を重ね合わせていた。
 何度か口付けを交わして、私たちは見つめ合う。半助さんの両手の親指が私の両頬を撫でた。
「私はもしかしてあなたの房術に掛かっているのかな?」
 目線を合わせたままにっこりと笑いながら尋ねてきた半助さんに、私は不満顔で口を開いた。
「寝なきゃ情報を手に入れられないくのいちなんて二流よ」
 私の言葉を吟味するように、半助さんの目が瞬いた。次第に半助さんの表情が、え、というものに変わる。
「……さん、もしかして……」
 その先を言わせるような真似はしなかった。彼が問うよりも早く、私は言葉を紡ぐ。
「言っておきますが、私が卒業した学校のくのたまにとって、色の実習を受けずに卒業できるということはステータスなんですからね」
 色の実習を受けずに卒業できるということは、女としての武器を使わずとも男と対等に渡っていける実力があるということなのだ。むっとしながら言うと、半助さんは笑った。
「そうですか。だから私みたいなわるーい男に引っかかってしまったんですね」
「なっ……」
 わるーい、と言うときの半助さんの声が殊更甘ったるくて、私は赤面した。半助さんはどこか楽しげな様子でにこにこと笑う。
「どうです、今からでも実習を受けませんか? 私でよければ補習授業をして差し上げましょう」
「ほしゅう、じゅぎょう……?」
 補習授業。なんて屈辱的な響きだろう。学園で成績はいつだって一番だった。補習なんて受けたことがない。どうして私がそんなものを受けなくてはならないのか。
「それとも、自信がないんですか?」
「………………」
 無言で半助さんを見つめるが、彼の瞳はどこまでも穏やかだった。きっと私がここで本気で嫌だと言えば半助さんはそれに従うだろう。しかし、そうだと分かるからこそ安易に拒絶するのは躊躇われて、私は答えを出せずにいた。そんな私の背中を押すように、半助さんは口を開く。
「私を誘惑して、陥落させて、情報を引き出せばいい」
「……いじわる」
 それは甘い甘い誘惑だった。私が半助さんを房術に掛けているのではない。半助さんが私に房術を仕掛けているのだ。……そう気付いた時には、もうすべて遅くて。
「好きな娘はいじめたくなるのが男の性というものですよ」
 紡がれる言葉は意地が悪いことこの上ない。だというのに、半助さんの表情は、声は。驚くほど優しくて、甘くて、どうしたらいいのか分からなくなる。
 私は半助さんの膝の上でもぞもぞと移動し、半助さんと向かい合うように座り直した。緊張で指先が震えそうになるのを半助さんの首から掛かっている手拭いを掴むことで誤魔化して、私は自ら彼の唇の横に自分の唇を寄せた。額に、頬に、鼻先にとあえて唇を外して半助さんの顔に口付けを落としていく。何度かそれを繰り返して最後に口の端にちうっとやや大きめのリップ音をたてて吸い付き、その体制のまま上目遣いで彼を見つめれば、くくっ、と彼は笑った。
「なるほど、たしかにあなたは優秀なくのいちだ」
 言い終わるか言い終わらないかのうちに、噛み付くような口付けを浴びせられた。そのまま喰われそうな勢いに思わず半助さんの唇から逃げようとすれば、思いの他すんなりと解放される。互いの鼻先が触れ合う距離で見つめ合うと、半助さんが僅かに苦笑いを浮かべたように見えた。そして、言葉もないまま、再び唇が重ねられる。今度の口付けは優しかった。先程の性急さを謝罪するかのように、私を宥めるような、ちゅっ、ちゅっ、と軽い口付けが落とされる。その心地よさに肩の力を抜き、口元に入っていた力も抜いてしまえば、口付けはいつの間にか深いものへと変わっていた。半助さんの舌先が、私の歯の裏を、上顎を、丹念に撫でていく。舌と舌が絡み、じんわりとお互いの温度が混じり合った。半助さんと口付けを交わしながら、私は自分の知っている技術がいかに拙いものだったのかを思い知る。実習を受けて卒業した同級生たちは、みんなこのような口付けを知って卒業したのだろうか。
 半助さんの唇が、私の耳の縁をなぞる。頭の奥が痺れるような感覚に身を震わせているうちに、彼の唇は私の顎へ、首筋へ移動した。半助さんの右手の親指が私の纏う襦袢の左の襟に掛かり、僅かに肌蹴させる。現れた肩口にも半助さんは口付けを落とし、そして彼はやや強めにその場所に噛み付いた。
「っあ……」
 痛みとも快楽とも分からない小さな悲鳴が口から洩れる。唇を私の肩に付けたまま、半助さんが笑った。
「こういうのが、好きなんですか?」
 違う。そうじゃない。否定の言葉は声にならず、私はただ首を振る。そうですか? と半助さんは首を傾げた。肩口に出来た噛み跡を、労わるように半助さんの舌が舐める。舌はそのまま首筋を上の方へ戻っていき、舌先が耳朶に触れたと思ったら歯が触れて甘噛みされた。
「こういうのは?」
「や、耳元で喋ら、ない、で」
 鼓膜を音と空気の波が震わせる。低い囁き声に、背筋がぞくぞくした。嫌だと言ったのに、半助さんは私の耳に口を寄せたまま喉の奥で笑う。
さん、貴女がかわいくてかわいくて仕方ない。私の心を奪った罪を、どうやって償ってくれるんですか?」
「えっ、え……?」
 思わず半助さんから身を離してその顔を眺める。彼は優しい表情でこちらを見ていた。
「まさかただで済むとでも?」
 半助さんは優しげな顔のまま、けれど言葉だけは私を責めるように問いかける。私は戸惑いながらも口を開いた。
「あの、ええと、その……代わりに私の心を差し上げます……」
 これじゃあ、ダメかしら……? 困って首を傾げると、ぶはっ、と半助さんは吹き出した。
「もうだめ、降参だ。貴女はつくづく優秀なくのいちですよ。さん、あなたを愛しています」
「……!」
 半助さんの意志の強い瞳が弓なりに細まり、形の良い唇が自分への愛の言葉を紡ぐのを、私はどこか夢見心地で眺めていた。少しして言われたことを理解した頭が、全身に甘やかな感情を伝える。喜びで体が震えた。胸がきゅうっとなって、悲しくないのに切なくて、目に涙が浮かぶ。この感情に、なんと名前を付ければいいのだろう。ああ、これが愛しいという気持ちなのだろうか。ぼやける視界の先で半助さんが微笑む。
「ああ、やっと泣いた」
 酷く、優しい声だった。
「…………っ」
 ますます涙が出てきそうになる。けれども、その矜持でなんとか涙が零れそうになるのを堪えようとすれば、半助さんは苦笑する。
「もっとちゃんと泣いてしまえばいいのに」
 半助さんは私の額にちゅっと口付けて、その大きな手のひらで優しく頭を撫でる。泣くのを耐えようとしている意思が、ぐらぐらと揺れた。
「だって私はプロの忍者なのに」
 首を横に振りながら言えば、しょうがない子だなぁ、というように半助さん笑った。
「忍びだって、大人だって、泣きたくなることくらいあるでしょう」
 その言葉を聞いた瞬間、私はなぜ半助さんが私を泣かせようとしているのか理解した。彼はきっと気付いていたのだ。母が死んでなお、泣くことを耐え、零したかった涙を私が飲み込んだことに。何度も何度も、半助さんの手は私を撫でる。左手が背中を撫で、右手が頭を撫で、頬を撫でて顔に掛かった髪を耳に掛けた。
「甘やかさないでください……半助さんに甘やかされたら、私はきっとだめな人間になってしまう」
 それでもその誘惑に耐えようとなんとか言葉を紡ぐけれど、言いながら、ああ、きっともうだめだ、と思った。瞳にはもうこれ以上溜めきれないほどの涙がたまり、私は俯いて両手で顔を覆う。どうしてこの人はこんなに私を甘やかすのが上手なのだろう。
「あなたは自分に厳しすぎる。もう少しだめなくらいの方がかわいいですよ」
 甘い声が頭の上から降ってくる。もう、限界だった。
「~~~~っ。私がダメ人間になったら半助さんのせいですからね!」
「そのときはきちんと責任を取りましょう」
 笑う半助さんの胸に飛び込み、私はプロのくのいちになってから初めて泣いた。



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2013.7.21