「うう……錬金術ってムズカシイ……」
元の世界でも化学が得意だったわけではないが、この世界の化学はより難しく感じる。
用語などに大した違いはないが、どうやら原理に根本的なズレがあるようなのだ。
「だってどう考えても魔法だもんなぁ」
21世紀地球日本育ちのわたしにはどうも理解しがたい。
錬成陣ってなに。
魔法にしか見えないんだけど。
はあ、とわたしは重い溜息を吐いた。





存在証明書





その日、家に帰ってきたマスタングさんの機嫌はすこぶる悪かった。
昨晩は仕事で家に帰ってこなかったのだが、それだけならいつものことである。
何かあったのかと聞くか聞かぬべきか迷って、結局口にした。
「ずいぶんと、お疲れですね」
あくまで婉曲に。さり気なく。
日本人の得意とする方法である。
マスタングさんはちらりと一瞬だけこちらに視線をよこし、ああ、とだけ返した。
ありゃ、これは相当なことがあったな。
今までも何度か不機嫌な様子で帰ってきたことがあったが、そのときは部下に仕事を急かされるのが不満だとか、休みが足りないだとか、そんなことだった。
軍において上位の地位にいる彼に、気軽にどうしたのかと問うわけにもいかず、わたしは口をつぐむ。
なにか、理由を知らなくても励ますことのできる言葉があればいいのだけど。
しかし、安易な言葉は彼の心を癒しはしないだろう。
このひとのいる世界は、わたしが過ごしてきた人生からは到底想像できないような世界だ。
この世界には、戦争がある。
この世界には、軍人がいる。
マスタングさんはそんな世界の中の、それなりに重要な位置にいるのだ。
つい最近まであったらしい東部の内乱とやらの時期と、彼の年齢とを考えれば、いくらなんでも彼が無関係ではなかったことくらいの予想はつく。
わたしのいた世界にも戦争がなかったわけではないけれど、少なくともわたしが住んでいた国にはなかった。
自衛隊はあっても、軍はなかった。
先の時代には確かに戦争があったけれど、わたしはその時代を生きていない。
その時代の人間が持つ苦悩を、わたしは知らない。
知らないくせに、分かり合えるかのような言葉を紡ぐのは、どうしても気が引けるのだ。
そんなことを考えていると、ふいにマスタングさんが苦笑した。
なんだろう、と思って首を傾げる。
「すまない、気を遣わせてしまったね」
「! いえ、そんなこと、」
言い掛けて、わたしも苦笑。
鋭いひとだ。
「お世話なってる身なんですから、気くらい遣わせて下さい」
偽りの言葉は必要ない。
嘘はひとを不安に陥れ、疑心暗鬼にさせる。
そうではなくても負い目があるわたしは、これ以上嘘を重ねたくなかった。
マスタングさんは一瞬きょとんとした表情を浮かべたあと、肩の力を抜いて微笑む。
「ありがとう」
ゆっくりとマスタングさんの手がこちらに伸びて、そっと頬を撫でられた。
なんだかくすぐったい気持ちになりながら、わたしも微笑み返す。
頬に添えられた手に自分の手を重ねて、自分の前に運ぶ。
そうしてからもう一方の手も重ねて、マスタングさんの手をぎゅっと握り込んだ。
「ほんとうはもっと、気の利いた言葉をあげられたらなって思います。マスタングさんはわたしにいろいろ与えてくれるけれど、わたしが返せるものは少ないから」
わたしは、この世界になにも持っていない。
今着ている服も、住んでいる場所も。自由に生きる権利さえ、彼に与えられたものだ。
ありがたいけれど、とても申し訳ない気持ちにもなる。
「いや、君が私にくれたものを考えれば、私の方こそ一生かかっても返しきれないよ」
「え?」
驚いて顔をあげたわたしを、マスタングさんは穏やかな表情で見つめていた。
あまりにも優しげな瞳に、胸が波立つ。
けれど、次の瞬間自分の心に生じた感情は、どうしようもないほどの不安だった。

彼にそれを与えたのは、ほんとうに“わたし”?

ぐるぐると思考に陥れば、抜け出せなくなる。
だから、なるべくなにも考えないようにして、わたしはそっと彼の手を離した。
「マスタングさん、今夜はグラタンですよ」
それは楽しみだ、とマスタングさんが微笑んだ。





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20081027