最果てへの片道切符




 それから時は流れて。
 大学卒業後、はイギリスにある大学院に進学していた。“あの世界”で様々な科学に触れたことによって研究の道に興味を持ったこと、それに加えてが興味のある分野の大きな研究室がイギリスの大学にあったことが留学を決めた要因だった。まあ一番の理由は大学で専攻していた分野がちょうど一致していたからであるが。語学面でもイギリスへの留学であれば一切問題がなく、今は修士課程を終えて、博士課程で博士号を取得するために日々研究に追われていた。



 朝から行っていた実験に一区切りついたため、研究室の自分のデスクでがだいぶ遅めのランチを取っていると、席を外していた同期の男が息を切らして部屋に入ってきた。
「おい、教授を見かけなかったか!?」
「ええ? あの人また抜け出したんですか?」
 食べかけのターキーのサンドイッチを手には呆れたような声を出す。
「そうなんだよ。次の学会の準備終わってないっていうのにあの巻毛……!」
 は残り少なくなっていったサンドイッチを口の中に放り込んだ。保温性の高い水筒に適温で入れてきた紅茶を飲んで、ややパサつくサンドイッチを喉の奥に流し込む。
「先生の悪癖には困ったものですねぇ。……なんかすみません、わたしも探すの手伝います」
「こちらこそ休憩中に悪いな、頼む」
 水筒をデスクに置いて立ち上がったに、同期の男はすまなそうな顔で手を合わせた。



「リー先生」
ちゃん!」
 の姿を認めると、桃色の花が咲く木の下に座りながらぼんやりと空を見上げていた男はぱっと顔を輝かせた。
「……やっぱり。リーバーさんが見つけられないでいたのでここかなって思いました」
「えへへ、愛の力かな」
 責めるようなの視線に怯んだ様子はなく、男は嬉しそうに笑う。は頭痛を堪えるように己のこめかみに手を当てた。
「消去法と統計の力です。戻りますよ、まだ学会の発表資料作り終わってないんでしょう?」
 この場所は男とにとって少々意味のある場所であり、ここで男を見つけてもが人を呼ばないことを男は知っていた。
「少し一緒にゆっくりしていこうよ」
「ゆっくりしてる場合じゃなさそうだからわざわざわたしが探しにきたんですけど」
 難しい顔でが嗜めると、男は「えー」と唇尖らせる。
「じゃあちゅーしてくれたら戻る」
「……分かりました、リーバーさんに頼んでみます」
 黒いクロップドパンツのポケットからスマホを取り出し、操作し始めたに男は慌てた。
「待って待って待って。欲しいのはちゃんのキスなんだけど!」
 男の言葉には半眼になった。もちろん承知の上での行動である。
「言っておきますけど、後で困るのはわたしじゃなくて先生なんですからね」
 スマホを手にしたまま腰に手を当ててぷりぷりと怒ってみせるに、男はしゅんと項垂れた。
「だってさ、この頃あんまりこうやって二人きりの時間なんて取れてなかったじゃない?」
 男の台詞には思わず一瞬言葉を失った。それでわざわざ研究員たちの監視を掻い潜って脱走してきたわけか。はため息を吐いた。
「しょうがないじゃないですか、リー先生は大きな学会での発表を控えているし、わたしはわたしでレポートラッシュだし」
「それはそうだけどさぁ……ねぇ、せめていつもみたいに名前で呼んでよ」
 男は目の前のの左手を取った。その薬指にはきらりと輝く石の付いた指輪が嵌められている。
「もう、仕方のない人ですね。……コムイさん、学会が終わったらわたしが貴方に合わせて時間を取りますから、今は戻りましょう?」
 は取られた手の指を男のそれに絡めると、もう片方の手を相手の肩に添えた。そして顔を近付けてそっと軽い口付けを送る。
「……未だにこれくらいで照れちゃうの?」
 耳元までうっすら赤く色付いたの顔を見て、男は少しからかうように言った。
「なんですか? 文句でもあるんですか?」
 さらに顔を赤くしたが恥ずかしさを隠すように男を睨みつける。なんと幸福な光景だろう。男は愛おしそうに目を細めた。
「ううん、かわいいなって」
「〜〜っ、日本人は公共の場で気軽にキスしたりしないんです! ほら、リクエストに応えたんですから戻りますよ」
 は絡めていた男の手を引っ張って立ち上がらせる。彼女は見た目よりも力持ちだ。
 手を引かれながら歩き出した男はすぐに彼女の横に並ぶと「そういえば」と切り出した。
「リナリーが今週末家に来れるかって」
「来月の婚約パーティーの件ですかね」
「うん、準備張り切ってるみたいだったよ。ハイスクールの友達も呼んで見せびらかすんだって言ってたなぁ」
「なんか結局ほとんど任せてしまっていて申し訳ないです……」
 が困ったように眉を下げると、男は「楽しんでやってるみたいだから大丈夫」と返した。
「あくまで身内のパーティーだしね」
「それならいいんですけど……」
 それでもまだ気にしている様子の。男は彼女の横顔を見下ろしながらふとその理由に思い当たった。男が立ち止まると彼女もそれに合わせて動きを止める。男は彼女の前に回り込み、少しだけ屈んで視線を合わせると優しく微笑みかけた。
「次の学会が終われば時間ができるから、式の方はちゃんと二人で準備しよう?」
 は男の顔をしばらく見つめた後、内心を当てられたことに一瞬照れ臭そうな顔をする。だが、やがて顔を綻ばせると「はい」と頷いた。



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2021.2.10