その日黒の教団本部の科学班のフロアは普段の喧騒が嘘のように静かだった。というのも、科学班の主要メンバーたちが“第三使徒計画”の研究会議にために北米支部へ出張しており不在にしていたからだ。
 と、今日も今日とて仕事から逃げてきたらしいコムイは、第一班が全員不在にしていることをいいことに第一班のラボに陣取り、その“第三使徒計画”について意見を交わしていた。
「人間を半アクマ化してアクマを食べさせるなんてまぁよく次から次へとそんなクソみたいな作戦思い付きますねぇ」
 第三使徒計画についての説明を受けたは露骨に嫌そうな顔をして読んでいた分厚い資料から顔を上げた。ちなみに今読んでいたのは第二使徒計画の方の資料である。こちらもこちらで死に掛けのエクソシストの脳を非エクソシストに移植して人工エクソシストを作るというクソな計画だった。アクマ以上に悪魔らしい所業にいっそ感心を覚えるほどだ。発想がサイコパス過ぎる。
「この計画に一定の成果が出ているとして、君ならどうする?」
「それはわたしがコムイさんの立場ならどうするかという話ですか?」
「うん」
 頷いたコムイには「そうですねぇ」と口元に手を当てて考える仕草をする。
「第二使徒計画はともかく、第三使徒計画は使徒化する本人たちの同意があるんでしょう? そして一定の成果が出ている。……まあとりあえず静観するしかないでしょうね」
「……だよねぇ……」
 はぁ、と自分の物ではない机に突っ伏し項垂れたコムイをちらりと見遣ってはぽつりと一言。
「わたし個人としては止められるものなら止めたいですけど」
「え、意外」
 コムイは机からばっと顔を上げた。率直に言ってこの世界におけるの興味の範囲はとても狭い。倫理的に問題がある案件とはいえ、関わったことのない隣人の尊厳をがそこまで気にするとは思えなかった。
 そんなコムイの視線を正しく捉えたは薄く笑う。
「たしかにルベリエ長官の部下がアクマになるとかならないとか正直どうでもいいですよ。自分の意思でそうなったのなら尚更。ただ、アクマの魂が見えるアレンくんはたぶん悲しむでしょうから」
「あー……なるほど」
 コムイは複雑な心境で頷いた。彼女に心の拠り所ができたことを嬉しく思う気持ちは嘘じゃない。しかしそれと同時に自分の中にどうにもならない嫉妬心があることもコムイは認めていた。
「実現できるだけの力は持ち合わせていないのでやりませんけどね」
 肩をすくめたにコムイは苦笑いする。
「それを聞いて安心したよ。ちなみに実現する力があるとしたらどんな方法でやるの?」
「ルベリエ長官の頭をトンカチでカチ割る」
「絶対やめて」
 だからやりませんって。はそう朗らかに笑ったが、それからたった数日でその笑みは消えることとなった。



最果てへの片道切符




 北米支部がノアの一族によって襲撃された。第二使徒計画の被験体および第三使徒計画の母体とされていたアルマ・カルマはアクマ化し、アレンや神田と交戦して最終的に自爆。アルマ・カルマとけして浅くない因縁のあったらしい神田はその際に重傷を負ったが、アルマ・カルマの遺体と共に行方をくらましている。そしてアレンはその二人の教団からの逃亡を幇助した罪で、厳重なイノセンスの封印と拘束を受け、現在教団内の地下牢に拘束されていた。
 状況の説明を受け苦い顔をする面々の中で、は意外にも冷静な表情でその話を聞いていた。
大丈夫か……?」
 すぐ近くにいたリーバーが小さな声で話し掛けてくる。彼はとアレンの関係や中央庁との契約を知っている数少ないうちの一人だった。
「ええ、まあ……リーバーさんこそ、怪我をされたみたいですがもう起きてきて大丈夫なんですか?」
「俺のは擦り傷みたいなもんだよ」
 苦笑して答えるリーバー。今回の襲撃事件では現地に赴いていた科学班もその多くが怪我をした。非戦闘員の彼らにとってはだいぶ辛い戦いだっただろうにそれを顔に出さずこちらを気遣うリーバーには俄かに胸が痛むのを感じた。
 リーバーに限った話ではなく、教団に2度目の帰還を果たしてからというものを取り巻く環境は以前よりも随分と優しい。そんな風に心配してもらえるほどのことをは返せていない気がして、しかしエクソシストとして生きる覚悟も強い力もなく、それが彼女の良心を苛んでいた。彼らはきっと「気にするな」と笑うのだろうけど。
 アレンの件について大丈夫か大丈夫じゃないかと問われたことについては実の所大丈夫ではなかった。しかし取り乱したところでアレンを救えるわけでもなく、は思考を巡らせる。
 拘束されてから数日、黙秘を続けているアレンは自白剤の混入を恐れて水以外何も口にしていないとのことだった。
「…………」
 はふいに近くの棚を漁り始めた。一緒に報告を聞いていた面々が何事かと見守る中、彼女が手にしたのは一つのシンプルな工具だった。
「……ちゃん? その金槌でいったい何を……?」
 数日前のやり取りを思い出したコムイが冷や汗を流しながら尋ねるとはすっとぼけた様子で答えた。
「ちょっと書庫の踏み台が壊れていたので直そうかと」
「今!? 踏み台なら科学班で直してあげるからそれは元の場所に戻そうか!?」
 ぎょっとした様子で叫ぶコムイ。は己の頬に片手を添えて分かりやすい“困ったわ”の表情を作るとため息を吐いた。
「そんな……こんなことくらいで忙しい科学班の皆さんの手を煩わせるなんて……。自分でやります」
「いや、今“やる”が“殺る”に聞こえたんだけど気のせい!? さすがに金槌はマズイって!」
 なぜコムイがこれほどまでに焦っているか分からない周囲はただ困惑した様子で二人の様子を見守る。
 コムイの台詞にははっとしたかのような動きをすると、わざとらしいくらい真剣な面持ちで頷いた。
「……そうですよね。ルベリエ長官の護衛に金槌で勝てるわけありませんものね。分かりました、素直にイノセンスで行きます」
「わーストップストップ! やっぱり長官のとこに行くんじゃん! 咎落ちしちゃうって!」
「わたしが敵に回してるのは神様じゃなくて中央庁の役人たちなのでセーフじゃないですか?」
「人としてアウトだよ!」
 コムイと以外の人間は各々顔を見合わせた。よく分からないが二人は仲が良いようだ。重要な話は終わったようだしひとまず解散するか。間に入れない雰囲気に団員たちは考えることを諦め、各々持ち場に戻り始める。
 二人はしばらくコントのようなやり取りをしていたが、周囲の人間が散り始めたことに気付くとはふと真顔になった。
「とまあ冗談はこのくらいにして」
「冗談だったの!? 本当に!? ねぇ本当に冗談!?」
 何度も聞き返してくるコムイを適当に流して、は声を落とす。
「……ちょっと長官と話をしてきます」
「!」
 その声の真剣さにコムイは顔を強張らせた。そんなコムイの様子には少しだけ笑って、持っていた金槌をコムイに手渡す。
「大丈夫ですよ、少しお願いをしてくるだけです。勝算もあります。……たぶんこれはわたしにしかできない役割です」
「…………」
 本当に殴ったりなんかしませんよ、とは茶化すがコムイの表情は固いまま。
「そんなに心配ですか?」
「そりゃあ、そうだよ……」
 それは何に対する心配なのか。わざわざ聞くような無粋な真似はしなかった。が本気でルベリエの頭をカチ割る心配なんかコムイもしていないだろう。
「仕方ないですねぇ」
 はやれやれと首を振ると、おもむろにコムイへ近付き、その手をコムイの方へ伸ばした。そして。
「えっ!? うわ、ちゃ……キャー! ちゃんのエッチー!」
 その声に散っていた人々が何事かと二人の方を向くがそこには自身を抱きしめるコムイと白けた顔のが向かい合って立っていただけ。なんだ、またコムイ室長が一人で騒いでるだけか。彼らはそんな二人にすぐ興味を失うとそれぞれの作業に戻る。
 視線が再び散ったのを確認してからは小声で語気を強めた。
「ちょっと! 誤解を生むような悲鳴あげるのやめてもらえます?」
「誤解じゃないもん! 胸元まさぐられたもん! 僕もうお婿に行けないぃぃ!」
 同じく声量を落としながらもめそめそと訴えるコムイ。
「はいはいじゃあ一生独身でいてください」
ちゃんが責任取ってもらってよぉ」
「いらないです」
 はきっぱりと返すと、手の中の物をこっそりとコムイに見せながら言った。
「これ、回収していきますね。代わりにこちらを差し上げます」
ちゃんこれ……」
「あ、誤解しないでください。一時的に交換するだけですから」
 がコムイに見せたのは今しがたコムイの白衣の胸ポケットから回収した盗聴器だった。そう、がかつてコムイに仕掛けておいた物である。そしてが自分の団服のポケットから取り出したのはその受信機の方だ。
ちゃん、僕が気付いてるの気付いてたんだ……」
 受信機の方を受け取りながらコムイが言う。これでコムイの方がとルベリエのやり取りを聞けるようになった。
「そりゃあ途中から明らかに音質が良くなりましたもん、気付きますよ。洗濯の時は律儀に付け替えてくださっていたようですし」
 まさか改良までして逆に聞きやすくしてくれるとは思いませんでしたけど。は付け加える。そう、が回収した盗聴器は厳密にいえばが取り付けた盗聴器その物ではなく、コムイの手が加えられてより人の声が聞き取りやすく周囲の雑音を拾いにくい仕様に改良された物だった。
「僕がちゃんにしてあげられることなんてこれくらいだからさ」
 それに君なら上手く使ってくれるだろうと思っていたし。吹っ切れてしまったコムイはどこまでも健気で真っ直ぐににその気持ちを伝えてくる。
 正直なところはもうほとんど絆されていたが、それを表情には出さず「ありがとうございます」と静かにお礼を言った。



 じゃあ行ってきますねと告げたに、コムイもいってらっしゃいと返す。
 彼女が後ろ向いた瞬間コムイは「あっ」と声を出しかけて口元を押さえた。
 の頭には花を模した銀色のバレッタ。
 それはかつてコムイがにあげたものだった。プレゼントしたその日にリナリーが彼女を飾って以来付けているのを見掛けたことは無かったが自分が作ったものなので間違いない。
 己の気持ちが受け入れられたわけではないことは分かっている。それでも言葉にならぬ歓喜が胸を満たしていくのを感じながら、彼女が出ていったドアをコムイはしばらくの間見つめていた。



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2021.2.2