「コムイ室長? ここには来てないわよ」
気まずそうな表情で医務室を訪れたにそう答えたのは婦長だった。
「あー……うーん……ですよねー……」
「なあに? あの人怪我でもしたの?」
複雑そうな表情で唸ったに婦長は首を傾げる。疑問に思うのも当然、この黒の教団の司令塔でありデスクワーク中心の仕事であるコムイが医務室に訪れるほどの怪我をすることはそう多いことではない。
「怪我というかなんというか……えっとぉ……」
言いにくそうに目を泳がせたを少しの間考え込むように見つめて、婦長は微笑む。
「ねぇ、私はなにかあなたのお役に立てるかしら?」
ちらり、と婦長の顔を見て。その笑顔の温かさには無性に泣きたくなった。
最果てへの片道切符
深呼吸を3回。覚悟を決めて目の前の扉をノックする。「はーい、どうぞー!」と気の抜けるような声が返ってきては恐る恐るドアを開けた。
「えっ、あれっ、ちゃん……!?」
伸びをしながら訪室者を迎えたコムイは予想外の人物の訪れにそのままの姿勢で固まる。
はなるべくなんでもないような顔をしながらコムイに近付き、手にしていた白い紙袋を差し出した。
「これ、湿布です。良かったらどうぞ」
ぱちくり、とコムイは目を瞬いた。
「頬、早めに冷やした方がいいかと思って」
意表を突かれた様子のコムイには苦々しく付け加える。アレンの件について彼を許す気はない。けれど、気に入らないからといって相手に手を上げるのは本来のの好むやり方ではなく、反省すべき点であった。
頑ななくせにどこか頼りなさげで、まるで叱られるのを待つ子供のような様子のにコムイは破顔する。
「律儀だなぁ……」
全てを許容する大人は優しい声でそう言うと、からそっとその紙袋を受け取った。
ほっと肩の力を抜いた様子のが用は済んだとばかりに「じゃあ私はこれで」と部屋から出て行ってしまうのがもったいなく感じられて、コムイは気が付くと「ちゃん」と彼女を呼び止めていた。
不審そうに振り返ったにコムイは自分で呼び止めたくせに一瞬困ったように指先で頬を掻いて、それからへらりと微笑みかける。
「あの……手当てはしてくれないの……?」
「………………」
あ、失敗したな。心底嫌そうな表情を浮かべたを見てコムイは即座に思った。だが一度口から出してしまった言葉はもう戻ってはこない。
しばらく不機嫌そうな顔をしたまま黙っていたが、コムイが撤回する様子がないのを見るとやがてため息を吐き、開きかけた部屋の扉を閉じてコムイの前まで戻ってきた。どうやら手当てをしてくれるようだ。
「湿布、貸してください」
コムイは先程受け取ったばかりの紙袋を差し出す。袋から湿布と布テープを取り出して手当ての準備をしているを眺めていると「何突っ立ってるんですか座ってください」と言われたので素直に自分のデスクの座席に座り、くるりと椅子を回しての方を向いた。
手早く準備を終えたは「眼鏡外しますね」と告げると淡々と湿布をコムイのうっすらと赤い頬に貼りテープで固定していく。素早いが丁寧な手つきだ。あっという間に処置を終えたは再びコムイの眼鏡を手に取り、それをコムイに返すかと思いきやふと動きを止めた。
「ちゃん……?」
処置中“無”を貫いていたの表情が僅かに歪む。彼女は何度か口を開くのを躊躇って、それから静かな声で言った。
「……アレン君の件は許しませんが、叩いたのはごめんなさい」
の台詞にコムイはきょとんと首を傾げた。その件についてはコムイ自身も己に非があると思っていたし、彼女の怒りは最もであったので責める気は全く無かった。それどころか。
「これを言ったらちゃんたぶん怒ると思うんだけど」
「は? 怒ると分かってて口に出すつもりなんですか?」
想定外の切り返しをされて驚いたのか聞き返すの声が少しだけ裏返った。それを少しかわいいなぁなんて思ってしまったのは口に出さない方が身の為だろう。
「いや、僕さ、ちょっと嬉しかったんだ。君に叩かれたの」
「え……」
の顔が引き攣ったのを見てコムイは自分の言い方が悪かったことに気付いた。
「待って、違う。そういう意味じゃない。そんなドン引きした目で見ないで」
「はあ」
別に被虐趣味をカミングアウトしたわけじゃない。そうじゃなくて。
「ちゃんさ、僕がやった例の中央庁の任務のときは怒ってくれなかったじゃない?」
コムイの台詞には顔を強張らせる。それを申し訳なく思いながらもコムイはの反応を待った。元々あの件に一生蓋をしておく気はなかった。いつかどこかで必ず話をしようと常々機会を伺っていた。今がその時だろう。
随分と長く間を空けて、は絞り出すように返答を口にした。
「……別に怒るようなことではなかったので」
自身が怒っていないというのならそうなのかもしれない。想定内の答えだ。でも。
「でも、君を傷付けた」
「わたしが未だに引きずっているとでも? ずいぶんと自惚れてるんですねぇ」
「いや、それは……その……」
即座に冷たい声で返されてコムイは思わず口籠る。けれどここで引くわけにはいかない。冷たく返されるだけの行いを己がしたのだ。であればコムイはでき得る限り誠意を尽くさなければならない。
コムイは椅子から降りて床に膝立ちすると、ベレー帽を外して深々と頭を下げた。
「すまなかった。キミを傷付けたかったわけじゃないんだ。あんなやり方になってしまったけれど、ちゃんに寄り添いたい気持ちに嘘はなかった」
しばしの沈黙。頭は下げたままであるための表情は見えない。
本当ならばこうして謝罪することさえ許されないことだろう。だからといって謝罪しないのもまた違うのだ。これは許しを乞う謝罪ではない。ただ彼女に伝えたかった。あんな結果にはなってしまったけれど、本当に心から彼女の力に、拠り所になりたかったのだと。
「……知ってますよ、だから言ってるじゃないですか。怒ってるわけじゃないって」
思ったよりも穏やかな声が降ってきてコムイは顔を上げた。言葉の通り彼女の瞳は凪いでいた。
は少し考えるような仕草をしてから僅かな苦笑を浮かべる。
「いいんですよ、コムイさんはそれで。あなたはここの司令官ですから、エクソシスト一個人の意思よりも守らなければならないことがあるのは当然。そこに思い至らず勝手に傷付いたのはわたしの責任です」
その言葉は許しであると同時に拒絶でもあった。彼女は再び誰かから手を差し伸べられることを、その手を取ることを諦めてしまっているのだ。彼女は否定したけれど、コムイの行いが未だ彼女の中で傷として残っていることは疑いようがなかった。
その傷にはあえて触れないようにしてコムイは言葉を選ぶ。
「普段そうやって理性で自分を納得させてしまう君だから、それを取り払って怒られたとき、不謹慎だけど嬉しかったんだ。なんだか前より君に近付けたような気がして」
は一瞬意表を突かれたような顔をして、それから何か思うところがあるのか複雑そうな顔をした。
「……いや、それは気のせいじゃないですかね?」
「えっ」
「近付くどころかコムイさんへの信頼地に落ちてますよ」
「うっ……いや、そうだよね……わ、分かるよ……」
しおしおと項垂れるコムイ。ご主人様に叱られた犬のように見えてしまうのは気のせいだろうか。本人にその気はないだろうがなんとなくあざといなと思う。
は小さく鼻を鳴らし、手に持っていたままだったコムイの眼鏡をかけ直した。
「というかその司令官としての使命、アレン君の件でもまっとうしてもらえるとよかったんですけど」
「面目ない……」
まずい、ないはずの犬耳がペタって見える。キューン、と鳴き声まで聞こえてきそうだ。
「だいたい中途半端なんですよコムイさんは。司令官として命令を下すくせに、優しいから、優しさを隠せないから、ちゃんと恨ませてくれない」
よく分からない幻覚のせいでなんだか褒めてるのか貶しているのか微妙な言葉になってしまった。
コムイもそれを感じ取ったらしく少し期待のこもった眼差しで首を傾げる。
「えっと……もしかして僕褒められてる?」
「貶してますけど」
はじと目でコムイを睨み押し切った。悪口といったら悪口なのである。
「あ、ハイ。すみません」
コムイは正座になり素直に謝罪した。
はコムイのつむじを見下ろしながら不思議な心地がしていた。こうしてコムイを見下ろしているというのも奇妙だし、コムイと例の件について話しているというのも変な感じだ。コムイがあの件に触れることなど一生無いだろうと思っていたのだ。なんだかむず痒くなっては少し話題を逸らすことにした。
「その点ルベリエ長官は悪役に徹してて素晴らしいですよね。ありとあらゆる人から恨み買ってそう」
まぁ彼の場合は積極的に恨まれ役になってやろうと思っているわけでもないだろうが。
「ハハハ……頼むからこれ以上長官と喧嘩しないでくれるかな……」
「喧嘩なんかしてませんよ。コミュニケーションですコミュニケーション」
遠い目をするコムイに、は心外だとばかりに声を上げた。ルベリエとのやりとりはあれがデフォルトである。常に関係が悪いだけじゃないかって? 気のせいだ。
「長官にそのうちガチギレされても僕は知らないからね」
想像だけで逃げ腰なコムイに、にわかに悪戯心が湧いたはにっこりとコムイに笑いかけた。
「あら、守ってくださらないんですか? 室長」
正面からそれを受けたコムイは「うぐっ」とうめき声をあげて情けない顔をする。
「うう、頑張る……頑張るけどさぁ……」
「ほらほら、わたしから信頼を得るチャンスですよ」
つい先程までのやり取りの手前イヤだとは言えまい。それを分かった上でが言っていることを無論コムイも理解していたが、さりとて反撃の手段があるわけでもない。
だから、せめて、と。コムイはうるうるお目目を作って精一杯に媚びた。
「……そうしたらご褒美くれる?」
「図々しいんですよ」
「ごめんなさい」
白けた顔のに即座に冷たい声で返され、コムイは撃沈した。
コムイはしばらくいじいじといじけていたが、ふいに真面目な顔になるとこう口を開いた。
「ちゃん、あのさ」
「?」
掛けた声に自然に返された視線。昨日まで、否、数時間前までとは明らかに二人の関係が変わっている。そのことに背中を押されて、コムイは勇気を出して切り出した。
「僕、やっぱりもう一度手を伸ばしてみたいなって思うんだよね」
「…………。十分長い手かと思いますけど、まだ長くしたいんですか?」
は暫く黙り込んだ後、わざとコムイの腕をまじまじと眺めて首を傾げた。
その視線を受けて、コムイは少しだけ照れ臭そうにはにかむ。
「うん。今度こそ大切なものにちゃんと手が届くように」
そういって自分との間の空間に手を伸ばしたコムイ。
「そうですか……」
向けられた言葉と手には少し困ったような顔をしたが、その“大切なもの”が何であるか明言はしなかったコムイにこれ以上返す言葉もなく。
そんな彼女の戸惑いに気付きながらもコムイはただ微笑んだ。
いいのだ、気持ちが返ってこなくたって。がその手を握り返してくれなくたって。彼女の一番になれなくたって。ただ、彼女に寄り添いたいと思う気持ちを証明し続けたいだけなのだ。これが自分勝手な想いだということをコムイは弁えている。だから、手を伸ばし続けることを拒否されなかった、それだけでもコムイにとっては僥倖だ。
いつかこの身が朽ちて手を伸ばすことが叶わなくなるその日まで。この気持ちをきっと証明し続けてみせよう。コムイは心の中でひっそりとそう誓った。