「リナリー」
名前を呼ばれて、少女は反射的に振り返る。
そこに見知った顔を見つけた彼女は「あっ」と声を上げると、みるみるうちに表情を明るくさせ、己の名を呼んだ者の前に駆け寄った。
! もう帰ってたのね! おかえりなさい!」
「はい。ただいま」
微笑んだに、リナリーは一瞬ぽかんとした表情を浮かべる。
あまりにも自然に紡がれたその言葉は、リナリーにとってとても大きな意味があるものだった。
「おかえり……うん、おかえりなさい……本当に本物のなのね……」
涙が零れそうになるのを耐えるかのように口を結び、ぎゅっとの首筋に抱き着く。
「色々と心配お掛けしたようですみません」
実のところ先程指令室に居たときにの方はリナリーの存在を認識しているのだが、それをが口にするのは無粋というものだろう。
言葉を発さなかったの存在は図体のでかいルベリエの陰に隠れて見えなかったはずであるし、リナリーとしてはそれどころではなかっただろうから。
苦笑いを浮かべて言うに抱き着いたまま、リナリーは無言で首を横に振る。
込み上げる感情の波が大きすぎて言葉が声にならなかった。
はリナリーの背中に手をを回し、ぽんぽんと小さな子供をあやすかのようにその背を撫ぜる。
あまりに優しいその手付きに、リナリーは胸が締め付けられるような感覚がした。
こうしていると、かつてのとのやり取りを思い出す。
教団から逃げたかったはずの彼女に半ば無理やり「ただいま」と言わせてしまったあの日のやり取りを。
……この場所は、教団は。
あれから少しでも、彼女の"ホーム"に近付けたのだろうか。
問う勇気はなく、背中に触れる暖かな手だけを確かなものとして感じながら、リナリーは目を閉じた。





最果てへの片道切符





久しぶりに戻った自分の部屋は、任務に出る前と変わらず整然としていた。
時々誰かが掃除に入ってくれていたのであろう、埃が積もっている様子もない。
は手首に掛けていたヘアゴムを外すと、それをよく磨かれた机の上に置いた。
シンプルな黒いリボンの付いたその髪飾りは、記憶を無くしていた間も失われずの元にあった唯一のものだった。
少し考えてから、は再びその髪飾りを摘まむと今度は机の引き出しの中にしまう。
ポケットから懐中時計を取り出して時間を確認したは、視界に入るやわらかなベッドの誘惑を打ち払い、戻ったばかりの自室から出て行った。





穏やかな眠りの世界からの招待を蹴ってまでしてが訪れたのは教団の指令室だった。
先程ルベリエとコムイから失踪中のことを聞かれていた、が追い出された、あの指令室である。
ルベリエとコムイの話は終わっただろうか。
扉をノックしてみても中から返事はない。
はそっと扉を開き、隙間から部屋の中を覗き込んでみた。
……うん。誰もいない。
確認して、は身体を部屋の中に滑り込ませた。
扉を閉めてからぐるりと部屋を見渡し、本当に誰もいないことを再度確認してから先ほど座っていたソファに近寄る。
そして、ソファに置かれたクッションの裏側に手を伸ばした。
(……あった)
指先に触れたのはなだらかな曲線を描く硬い物体。
2箇所だけ鋭利に飛び出ている部分があることに気を付けながら、手のひらに収まるサイズのそれを掴むと、は素早くポケットに突っ込む。
それは元々中に入っていた"なにか"と触れ合って、カチャリと軽い音を立てた。
これでミッションは完了。
これが回収できればもう指令室に用はない。
今度は堂々と扉を開け部屋から出ることにした。





ちゃん?」
部屋から出た瞬間、ちょうどこちら側に向かって歩いてきていたらしいコムイに声を掛けられる。
……部屋に入る前じゃなくてよかった。
出るときは目撃されても構わないと思って堂々としていたが、存外どきりとするものだ。
浮かんだ思考は隠し、は何食わぬ様子でコムイと視線を交えた。
「あ、コムイさん。お疲れ様です」
「お疲れ様……あれ、指令室になにか用だった?」
が指令室を出てからまだそんなに時間が経っていない。
コムイもたまたま少し部屋を出ていただけらしい。
不思議そうに首を傾げる彼に、は苦笑してみせた。
「探し物があったんですけど、ここではなかったみたいです」
「そうなんだ……なに探してるの?」
あらかじめ用意しておいた言い訳をコムイが疑う様子はない。
「黒いリボンの付いた髪留めなんですけど……」
「あー……あれか。指令室を出た時点ではまだ手首についてたよ」
「えっ、本当ですか? じゃあ途中で寄った科学室かなぁ……」
自身の中には驚くほど白々しく響いた台詞だったが、コムイの方は真面目に受け止めたようだった。
「探すの手伝おうか?」
当たり前のように差し出された親切に一瞬戸惑う。
この男はいったいなんのつもりで未だ自分に対して優しく振る舞おうとするのだろう。
彼を突き動かすのは罪悪感か。それとも……?
考えを打ち払うかのように、は首を横に振った。
「高価な物じゃないですし、わざわざ探して下さらなくても大丈夫ですよ」
探してもらったところで見付かるはずもないのだ。
なぜならそのヘアゴムは今、の部屋の机の引き出しの中に入っている。
一応と前書きがついても司令官であるコムイ。そんな彼に生産性のない捜索をさせるほども鬼じゃない。
「でもあれ、キミがここに来る前から持っていた物でしょ?」
「……よく、覚えてますね」
言いながら、はコムイの心の内を探るようにその顔を凝視した。
「記憶力には自信があるからね」
「…………」
なんでもないように答えるコムイに、は沈黙する。
何気ないやりとりのように思えるが、そうではない。
彼は知っているのだ。どこにでも売っているようなありふれたデザインのヘアゴムをが愛用し続けていることも、だいぶくたびれてきたそれを使い続ける理由が望郷の念であることも。そしてそれをがとても大切にしていることも。
が大切にしているものだと知っているからこそ共に探そうとしてくれたし、がそれを大切にしていることに気付くほどコムイはを気に掛けている。
それに気付いたに浮かんだのは、ただただ苦い感情だけだった。
胃の底が重い。
一度裏切られているというのに、それでも尚相手の中に自分への優しさを見出そうとしてしまった自分にも気付いてしまって、絶望すら覚えた。
……いっそ、徹底的に疎んでくれればよかったのに。
胸の中に渦巻いた様々な感情。
それでも沈黙し続けるわけにいかないは、困ったように笑ってみせた。
「……本当に、忙しいコムイさんに探していただくほどのものじゃないんです。……もちろん、もし見掛けたら声を掛けて頂けると助かりますけど」
告げたを、今度はコムイの方がじっと見つめた。
表情の変わらない、どこか他人行儀なに、コムイの眉尻がほんの僅かに下がる。
「……そっか。うん、分かった。もし見掛けたら声掛けるよ」
「ありがとうございます」
は丁寧に頭を下げて、では、とコムイに背を向けた。
視線が暫く背中を追い掛けてきていたが、パタン、という音と共に消える。部屋の中に入ったのだろう。
は溜息を吐き、知らず入っていた肩の力を抜く。
必要ないと言ったが、この分だと彼はのヘアゴムを探そうとしてくれるだろう。
辻褄合わせのためにも暫く探すふりをし、頃合いを見て見付かったと伝えた方が良さそうだ。

……まあ、それよりもまず、こちらを調べるのが先か。

ポケットの中に手を入れながら、は考える。
指先に触れるのは、羽の折れたゴーレム。
ルベリエに退室を言い渡された時、とっさにポケットに入れていたゴーレムの羽を逆パカして折り、スイッチを入れてクッションの下に隠したものだ。
中国支部でもらったこのゴーレムには、通信機能と録音機能が備わっている。
無事に回収できたこれを、さっそく部屋で再生してみることにしよう。
ポケットから手を抜くと、ゴーレムの本体と折られた2枚の羽がぶつかり、カチャリと音を立てた。





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2016.9.19