未だ左手を取り戻せずにいるアレンに後ろ髪引かれつつも、いつになるか分からないものを待つわけにもいかず、中国支部から本部へ向けて旅立ち僅か数日。
数名の医療班と、イノセンスを持たないを護衛するためのファインダーを連れた、本来ならば数か月かかるはずだった旅は、実にあっさりと終わりを迎えた。
「は? 中国支部に引き返す?」
『ここ数日でちょっと事情が変わってね。詳細については今は省くけど、中国支部から本部まで一瞬で移動できるようになったんだよ』
「はあ……」
中国支部で新しく支給された最新のゴーレム越しにコムイの説明を聞きながら、は気の抜けたような返事をする。
中国支部から本部に一瞬で? ついにどこでもドアでも開発されたのだろうか。
『まあとにかく、このまま陸路と航路を使ってこちらに帰ってくるよりは中国支部に引き返しちゃった方が早いから。中国支部を発ったばかりのところ申し訳ないんだけど、よろしくね』
その声に、どこか焦りのようなものが含まれていることに気付かないではなかったが。
「……分かりました」
何も分からない今は、そう返すより他なかった。
最果てへの片道切符
“方舟”
それは千年伯爵の所有していた巨大な船だった。
今の人類が繁栄する七千年以上も前から存在したそれは、かつて世界を襲った大洪水の際に造られた巨大な建造物である。
科学班からの情報によれば、この方舟には空間を移動する機能やアクマを生成する工場があるらしい。
アクマの生成工場についてはこれから科学班の調査が入るそうだ。
さて、なぜ方舟の話題が出てきたかといえば、それは方舟が此度の戦いの戦利品であるからだ。
の与り知らぬところで、ノアの一族とエクソシストの大きな戦いが始まり、そしてまた知らぬ間に終わりを迎えていた。
が中国支部を発ち、戻ってくるまでの一週間にも満たない間の話だった。
碌な説明も聞かされぬまま、しかし一瞬で目的地まで移動できるのだという方舟に乗り込んだ。
方舟の中はまるで南イタリアのような白い街並みだった。
“Asia”と書かれた張り紙の張られている扉から“Home”の張り紙がある扉まではほんの十歩程度。
その扉を抜けると、すぐに頭の上から声が降ってきた。
「おかえり、ちゃん」
顔を上げなくたって声の主は分かる。
それはここ数日ゴーレムを通してよく聞いていた声だった。
「コムイさん……ああ、本当にここ、もう本部なんですね」
きょろきょろと辺りを見渡して、それから最後にコムイの顔を見上げる。
どこか疲れたような、それでいて安堵したような微笑みがを見下ろしていた。
「無事に来れたみたいでよかったよ」
「……すごい装置ですね、これ」
背後の方舟を振り返りながらは答える。
中国支部から本部までほんの数歩で移動できるなんて、いったいどんな構造になっているんだろう。
神やイノセンスなんていうものが存在している世界だから、科学的に証明できるようなものではない可能性もある。
方舟に興味深々といった様子のを見ながら、コムイは僅かな苦笑を口元に浮かべた。
つくづくは"こちらの世界の方が向いている"人間だ。
エクソシストである彼女にあえてそれを告げたりはしないけれど。
それよりも、とコムイは口を開いた。
「ちゃん。帰ってきてすぐのところ申し訳ないんだけど、いくつか確認したいことがあるんだ。指令室まで来てもらっていいかい?」
声を掛けられて、はコムイの方に向き直った。
「分かりました」
コムイの出迎えがなければ自ら指令室に出向くつもりだったので、それについては問題ない。
素直に頷いたに「それから……」とコムイは言い淀んだ。
「……今、中央からルベリエ長官が来てるんだ」
「!」
は探るようにコムイの見つめた。
「……わたし、契約は破ってませんけど?」
「いや、今回は別件でね」
「ふぅん……」
苦い顔で言うコムイをじっと見つめて、は思案する。
自分との契約の話じゃないなというのならば、いったいどんな用件で来たというのだろう。
男の役職やこれまでの自分との関わり方を考えれば、平和的な話ではないことは確かだ。
「別件なんだけど、君の話も聞きたいらしい」
「へぇ……それはそれは、また」
付け加えられた説明に、は口元を引きつらせた。
いったいどんなことが中央にいたはずのルベリエを本部まで来させる要因になったというのか。
なんにせよ、迷惑な話である。
はぁ、と小さく溜息を吐いて歩き出すと、コムイが横に並んだ。
「……ちゃん」
「?」
歩みを止めないまま、視線を声のした方向に向ける。
そこには心配そうな表情のコムイ。
「長官には気を付けて」
「……言われなくとも」
なんとなく感じた居心地の悪さに、はそっけなく返して前を向いた。
「やぁ、久しぶりだね、」
「これはこれは。本当にお久しぶりですねぇ、ルベリエ長官」
笑顔と笑顔がぶつかる。
表面上のやりとりは至極和やかであるにも関わらず、二人の間に流れる空気の悪さに、コムイは身震いを覚えた。
コムイがルベリエとのやりとりを実際に見るのはこれが初めてのことだった。
「思ったよりも元気そうで何よりだよ」
「うふふ、そうですね。さっさと死んだことにして捜索隊も出さなかったエクソシストが自ら帰ってきてくれてラッキーでしたね?」
「これでも心配していたのだよ」
が放った軽い嫌味にルベリエが堪えた様子はない。
どちらかといえば、二人のやりとりを見ていたコムイの方が気まずそうな表情を浮かべたくらいである。
いけしゃあしゃあとのたまうルベリエに、は大げさに驚いたような表情を作ってみせた。
「あらあら、死人の心配を? ルベリエ長官ったら相変わらず冗談がお上手なんだから」
の言葉に「ははは」と笑うルベリエ。
同じように「うふふ」と笑い返すを見ながらコムイは思った。
先程にルベリエに気を付けろと言ったが、余計な心配だったかもしれない。
考えてみれば、はかつてかなり自分に有利な契約をルベリエと結んできたような人間なのだ。
ルベリエの威圧にそう容易く屈するはずがない。
安心したような、心強いような、それでいて寂しいような。
入り混じる思いを抱えて、何故だかキリリと痛む気がする胃の辺りをコムイはそっとおさえた。
「兄さんっ、アレンくんに中央の監視がつくってどういうこと!?」
慌てた様子のリナリーが指令室に駆け込んできたのは、の記憶を失っていた間の話について粗方確認を終えた頃だった。
「おや」
ソファで足を組み優雅に紅茶を飲んでいたルベリエがリナリーの方に顔を向ける。
「!」
リナリーは指令室にルベリエの姿を見付けてぎょっとしたような表情を浮かべた。
「こんにちは、リナリー。足の具合はどうかね?」
「……ルベリエ、長官……」
ゆるやかな微笑みを浮かべて挨拶するルベリエに怯えた様子を見せるリナリー。
やがてカタカタと震えだしたリナリーを見たは、一体なにやったんだこのオッサン、という表情をルベリエに向けた。
「当分こちらに留まることになってね。そうだ、キミのイノセンスについても検査させてもらいますのでよろしく」
しかし、ルベリエといえばそんなの視線にも怯えるリナリーにも気にした様子はなく、マイペースに「あと、」と口を開いた。
「これ、私の新作ケーキなんだがひとつどうかね?」
いったい今までどこに隠してあったのだろう。
いつの間にかルベリエの右手には背の高い蓋の乗った皿が握られていて、その蓋をカパンと開くとツリー状に積み重なったたくさんの小さなシュークリームが現れた。
クリームやお洒落な形をしたチョコレートで飾られたそれは、作った人物からは想像できないほどのかわいらしい出来である。
けれど、リナリーの反応を待つよりも先に、コムイが声をあげた。
「わぁぁ、おいしそう! 僕がいただきますぅ〜〜!」
「長官のケーキは美味いっスもんねェ」
リナリーの後を追いかけてきたらしいリーバーがちょうどいいタイミングで現れて、コムイの言葉にうんうんと頷く。
「リナリーはほら! そろそろ検診の時間じゃないかい!?」
「あっ、そっ、そうっスよ!」
ははははは……と乾いた笑いをしながら棒読みでやりとをするコムイとリーバー。
「…………」
思わず無言になったルベリエの肩を気安くぽんっと叩き、は生温い笑顔を浮かべた。
「かわいい女の子に食べてもらえなかったからってそう気を落とさず」
「…………」
「じゃあオレ連れていきますんでっ」「よろしくぅー、リーバーくん」そんな二人のやりとりをちらりと見遣って、それからに視線を戻すルベリエ。
「……リナリーの代わりに食べるかね? かわいいお嬢さん」
「あら、お世辞なんか言えたんですね、ルベリエさん。では遠慮なく」
なんの躊躇いも無く一番上のナッツとチョコのシュークリームをひょいっと摘み上げ、口に含んだ。
「ん〜、おいしい〜」と頬を緩めるを眺めて、ルベリエは珍しく小さな溜息を吐いた。
「……って、ちゃん、なにやってるの?」
「? 長官の作ったプロフィットロールを頂いています」
「!?」
リナリーを見送り再び指令室に目を戻した瞬間目に飛び込んできた光景に、指令室の主であるコムイは絶句するしかなかった。
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2014.10.7