どうしてこんな大切なことを忘れていたんだろう。
分かっている。全ては己の弱さが招いた結果だ。
嗚咽が漏れそうになるのをこらえて、はなんとか口を開く。
「……この勝負、わたしの勝ちですよ。ティキ・ミック卿」
深い悲しみと、絶望、それから怒りの混ざり合った声。
そんなにティキはぱちくりと目を瞬いて、それからにっこりと笑った。
「なーんだ。思い出しちゃったのか」
軽い、を通り越し、どこか楽しげにも聞こえる口調でティキは言う。
は唇を噛み締めた。
そんなを見ながら、ティキは一枚のカードをアレンの体の上に落とす。
そして殊更優しげな声を作って告げた。
「約束だからね。お別れが十分に済んだらここにおいで。の知りたがっていたことをを教えてあげるよ」
最果てへの片道切符
話は、が行方不明のファインダー探しの任務を受け、消息不明になった日まで遡る。
「オレはティキ・ミック卿。ノアの一族さ」
アクマを倒したの目の前に現れた男はそう名乗った。
「ノアの一族……?」
その単語に違和感を覚えて、は眉を寄せる。
一族というからには、ファミリーネームは"ノア"ではないのだろうか。どうしてミック卿なのだろう。
「そう、世界を創造せし者にしてこの世界の人類の祖先、ノアの一族」
の疑問をよそに男は歌うように告げる。
内容はまるで聖書に出てくる"ノア"のようではないか。
「オレはお嬢さんを迎えにきたんだ」
「迎えに……?」
いったい、なぜ。
何事だというのだろう。
訝しむ様子のに、男は甘い顔で微笑んだ。
「お嬢さんはなにも考えず、ただ"こちら側"にくればいい」
"何も考えるな"だって? 一体誰に向かって言っている。
それこそがの最大の武器であるというのに。
「嫌だと言ったら?」
睨み付けるように尋ねたに、けれども男は微笑んだ表情を変えなかった。
「イエスと頷かなかったらお嬢さんはきっと後悔するよ。だって、オレはお嬢さんが元の世界に戻るための方法を知っているからね」
元の世界に帰る方法だって?
は鼻で笑った。
「いい加減なことを」
「いい加減なんかじゃないさ」
男はすぐさま反論する。
は胡乱げに男を見上げた。
どれほど泣き嘆いてもけして手にすることの叶わなかったあの世界。
その世界に帰る方法をこんな怪しげな男が知っているというのだろうか。
「なあ、お嬢さん、オレと賭けをしないか?」
困惑するに男は切り出す。
「すみません。賭博は法律で禁止されているのでちょっと」
こんな怪しい人間と賭けなんて誰がするものか。
は警戒心を強めた。
「まぁ固いこと言うなよ。ちょっとしたゲームさ。この先、お嬢さんがオレに惚れればオレの勝ち。お嬢さんにはオレのお嫁さんにでもなってもらおうかな。お嬢さんがオレに惚れなければお嬢さんの勝ち。元の世界に帰る方法を教えてやるよ。どうだ、悪い話じゃないだろう?」
「はぁ?」
ティキの提示した賭けの内容に、は思いっきり眉を寄せた。
「なんでわたしがあなたと結婚しなければいけないんですか? 初対面ですし意味が分からないです。というか、これだけ色々曝け出しておいてわたしから好かれるかもしれないと思ってるなんて自信過剰過ぎません?」
「そうかな? オレ、結構魅力的だと思うけど。これでも社交界ではもてるんだぜ? それに、オレならお嬢さんを戦わせたりなんかしない。もしも教団の人間がお嬢さんを探しに来ても、匿って守ってあげるよ?」
「な……」
の心の隙間に付け込むそれは、甘い甘い悪魔の囁き。
……言い訳させてほしい。
怪しいと思いつつ、背を向けて逃げ出すことをしなかったのは僅かでもそこに可能性を見出したからだ。
そう、見出してしまったのだ。
自分を育んだ、大切なものがたくさんあるあの世界にはどうしても帰りたかった。
「おまえはこんな世界のためになんか戦わなくてもいいんだよ……なあ、、辛い思い出も抱えている義務も、全部忘れちまえれば幸せだろ?」
気が付けば男はのすぐ後ろに立っていた。
男の右手がの顔の前に回されて、の両目を覆う。
は無意識のうちに目を閉じていた。
「全部無かったことにしてやるよ。辛い記憶は拒絶して、何もかも忘れてしまえばいい」
その力に抗えなかったのは心の弱さ。
じわじわと耳元から侵食していくこの闇に身を任せてしまえば、はもう世界を憎まなくてもいい。
世界が暗転し、"記憶"がから切り落とされる。
意識を失ったを男は難なく抱え上げて、その頬に口付けを落とした。
「さあ、ゲームの始まりですよ、お嬢さん」
アレンの頭を抱えたまま、はこの世界に来てからの日々を思い返していた。
気が付いたら知らない世界にいて、殺されかけ、エクソシストにされて、それが嫌で逃げ出し、けれど結局教団に連れ戻された。
団員たちはに優しかった。
けれど、それはがエクソシストであるからこそ。
エクソシストであることを拒めばその優しさが失われることをは経験からよく知っていた。
無論、がエクソシストであることを拒んでも優しくしてくれる者もいなかった訳ではない。
コムイ含む一部の化学班の人間に、神田やリナリー、ラビ。
彼らは、自分の暮らしていた世界を失い知らない世界の為に戦えと言われたに比較的同情的で、優しくしてくれた。
それでも、彼らの中に「はエクソシストでなくてもいいんだよ」なんて言ってくれた人はいない。
彼らは心のどこかでがエクソシストであることを望んでいる。
当然のことだろうとも思う。
にとっては知らない世界でも、彼らにとっては彼らの世界なのだ。
そんな記憶の中で一際明るく輝くアレンとの思い出。
がエクソシストだということを知らず、それでもを慕ってくれた白の少年。
拒絶し切れなかったその優しい思い出が、全ての記憶をに引き戻した。
「アレンくん。……アレンくん」
エクソシストでありたいアレンと、エクソシストであることを拒む。
道は違えたけれど、はアレンの幸せを願っていた。
どこか寂しい魂で、しかしなんの打算もなくを守ろうとしてくれたただ一人の子供。
それなのに。
「っ、どうして」
どうして、こんなことになってしまったのだろう。
どうしてこんなに悲しい再会でなければいけなかったのだろう。
汽車で会ったあのとき、名前を呼んであげられなかったことが悔やまれる。
は動かなくなったアレンをより一層強く抱きしめた。
そのとき。
どくん、と心臓の音を拾った気がした。
「え……?」
はもう一度しっかりとアレンの胸に耳を押し付ける。
どくん、どくん、と弱々しいながらも脈打つ心臓。
(まだ生きてる!)
気のせいじゃない。
急にぱっと視界が明るくなったような気がした。
は顔を上げくるくると辺りを見渡し、自分が来た道を思い返す。
思い出したの記憶が正しければ、この近くには黒の教団の中国支部があったはずだ。
かつで教団から逃亡し、中国を旅していた時、中国支部の存在を知ったはけしてそこに近寄らないようにしていた。
ティキと共に行動しているときに見せてもらった地図によれば、が滞在するはずだったあの村は支部からそう遠くないはずである。
は村から逃げてくるとき唯一手にしていた懐中時計を地面に置き、短針を太陽の方向に向けた。この短針と文字板の中心、そして十二時を結ぶ線の真ん中が示す方向が南である。
記憶の中から地図を引っ張り出し、支部のある場所を思い浮かべた。
着ていた上着を脱ぎ、畳んでアレンの枕にする。
ティキが落としていったアレンの上にあるカードを拾いスカートのポケットに入れて、は立ち上がった。
走って走って、ひたすら走る。
息が苦しい。脇腹が痛い。
暫く鍛錬をしていなかったうえに舞姫も手元に無いのでこうして走るのはきつい。
それでも今は止まるわけにはいかない。
絶対に、絶対に、あの子を助けるんだ。
しばらく走っていると、白い服を着ている集団が見えた。
あれは。
(ファインダーだ!)
顔を上げれば、中国支部らしき建物ももう目の前に見える。
悲鳴を上げる身体に鞭打って、は走るスピードをあげた。
ほとんど体当たりをするように、はファインダーの一人にぶつかる。
「うわっ!?」
にぶつかられたファインダーの男が驚きの声をあげた。
そんな男の様子をまったく目に入れず、縋る様に男の襟首を掴んではただ口を開く。
「……お、ねが…………」
上手く言葉が紡げない。
呼吸をするたびにヒューヒューと音がする。
二、三度大きめの呼吸して、は何とか声を発した。
「お願いっ、アレンくんを助けて! お、おねがっ……」
「なんだおまえ、ここは部外者立ち入り禁……」
ファインダーの男は思わずを払いのけようとしたが、はファインダーを必死に掴んで離さない。
「部外者じゃありません! わたしはエクソシストです!」
その肩書きをがはっきりと自ら名乗ったのはこれが初めてだった。
「エクソシスト?」
ファインダーの男の動きが一瞬止まりをまじまじと見つめる。
そしてファインダーはっとした。
「……あっ! おま、いえ、あなたは!」
思わず大きな声を出したファインダー。
行動を共にしていた他のファインダーたちもざわざわとざわめき出す。
『おい、何を騒いでいる』
その様子をゴーレムの向こうで聞いていた男がいるらしい。
その声にはどこか苛立ちが滲んでいたが、ファインダーの男はそれどころではなかった。
「バク支部長! か、かかか彼女!」
驚きのあまりうまく言葉を紡ぐことのできないファインダー。
そんなファインダーの代わりに、辺りを飛んでいたゴーレムがその姿を映し出す。
実際に会ったことはない。
けれど、黒の教団の団員たちはその姿をよく知っていた。
黒い髪に黒い瞳、白い肌を持つその姿は一見中国人のようにも見えるが、見る人が見ればすぐに違う人種だと分かる。
荒い息で必死にファインダーに縋る彼女は。
『!?』
ゴーレムから叫び声が上がった。
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2013.12.14