ティキと出会ってから早数週間。は町の小さな食堂で働くようになっていた。
「ちゃん、注文おねがーい」
「こっちは会計を頼む」
「はーい! 少々お待ちくださーい!」
時間はちょうどお昼時。
元々料理が美味しいことで人気ではあったが、が働くようになってから店はますますの盛況をみせている。
単純に若い――むしろ客には幼いくらいに見えているかもしれない――少女を眺めたいがために来ている客もいれば、この辺りではまず見掛けない異国の人間への物珍しさで来ている客もいた。
皆が皆初めからに好意的な視線を向けていたわけではないが、大抵の客は、過剰なほどのサービスが提供される社会で育った日本人であるのウェイトレスっぷりにほだされた。
彼女は気が利くし愛想も良い。それに、彼女が働きだしてから店内が見違えるほど綺麗になった、というのが客たちの共通の認識だ。
質の良いサービスに綺麗な店内。
結果、より居心地の良い空間になった食堂にはたくさんの人が集まるようになったわけである。
この食堂に、この町に、はいつのまにかすっかり馴染んでいた。
最果てへの片道切符
――カランカラン
「いらっしゃいませー」
お昼時のピークを少し過ぎた頃、店にやってきたのはの見知った顔だった。
よっ、と片手を上げてみせる黒髪でビン底眼鏡をかけた男。
ティキである。
おそらく仕事がひと段落してお昼を食べに来たというところだろう。
がこの食堂で働きだしてから、この男は欠かさずこの店に来ている。
ときどき仲間であるクラックたちを連れてくることもあったが、休憩のタイミングがずれたのだろう、今日は一人のようだった。
「お、。旦那が来たじゃないか」
ようやく昼の客が減り始めて慌ただしさから解放されたに、店長の奥さんであるおかみさんが声をかけてくる。
「旦那じゃないです……」
疲れたように答えるにおかみさんは快活に笑った。
「あっはっはっ、照れちゃってー!」
ばしばしとの背中を叩くおかみさん。
照れてない! と叫んでも無駄なことはこれまでの経験で分かっている。
は、はは、と乾いた笑いを返した。
「注文とってきます」
「あいよ。ちょっとくらい立ち話したって怒りゃしないんだからね!」
おかみさんの台詞をは聞かなかったことにした。
「今日も来ちゃった」
「いらっしゃいませ。ご注文はいかがなさいますか?」
テヘっと小首を傾げてみせる見知ったその人物を目の前に、はにこりと笑って決まりきった言葉を口にした。
「あれ? ……なーに。今日はやけに他人行儀だね?」
両手の指を組んでテーブル肘をつき、その上に顎を乗せてティキは面白がるように言う。
視線はおそらくに向けられていたが、牛乳瓶のようなレンズの眼鏡の奥からの眼差しは彼女まで届かなかった。
「本日はBセットがおすすめですが」
「じゃあそれで。……なあ、」
さらりと攻撃を躱したつもりだったが、追撃される気配を感じては僅かに身構えた。
それに気付いたティキがやれやれと肩を竦める。
「別にこんなところで取って食いやしないよ」
「……他の場所で取って食われたことがあるような言い方するのやめていただけません?」
ティキとは一つ屋根の下に暮らしてはいるが、そういった関係になったことはない。
ふたりの関係は今のところ、あくまで迷子とその保護者でしかなかった。
「。オレが毎日ここにくるのはイヤ?」
「イヤというか、毎回ネタにされるので恥ずかしいです」
今度は情に訴える作戦か?
思いつつも、は素直に己の気持ちを口にした。
それによってティキが少しでも慎んだ行動をとってくれたら、という期待からである。
だが、彼の行動はの予想の斜め上を行く。
「そうかそうか、嬉しいのか」
「どうしてそうなる!」
ニヤニヤと笑いながら頷いたティキに、は思わず突っ込んだ。
叫んでから、は周りの人間がニヤニヤしながら自分たちの方を見ていることに気付いてはっとする。
しまった、これでは余計目立っている。
は声の大きさを下げた。
「もー、とにかく! ごはん食べたらさっさと仕事に戻ってください!」
「はいはい。……まぁどうせ仕事が終わって家に帰ればまた会えるしな」
「ティキさん!」
だからどうしてこうこの人は周りに誤解されるようなことばっかり言うんだ!
いや、分かっている。ティキはわざとこんな風にをからかって楽しんでいるのだ。
そしてそれは、そのくらい気安く接してくれて良いんだよ、というティキからへの許しでもある。
優しくされるばかりではどうしても気を使わずにはいられない、そんな彼女の性質を、ティキはよく理解しているように思えた。
だから、そんなティキに、は甘え過ぎてしまったのかもしれない。
その日の夕方、帰ってくるなりティキは深刻そうな表情で切り出した。
「なぁ、オレってそんなに信用できない?」
「ティキさん? 急にどうしたんですか」
一足先に仕事から帰り、夕食の準備をしていたはきょとんとティキを見上げる。
「信用できる? できない? 答えて」
「…………」
信用してますよ、と咄嗟に口に出しかけて、けれどもはその言葉を飲み込んだ。
何も考えず、反射的に、その関係を壊さないために当たり障りなく紡がれようとしていた言葉。
けれど、本当に自分は彼のことを信用しているのだろうか?
彼を信じたい、と思う気持ちがあるのは確かである。
だが、理性はそれを拒んでいた。
今、の目の前にある選択肢はティキを信用するかしないかの2択だけである。
はこの世界の知識を持たない。
そんな状況で彼を信用するということは、もまた、彼の中の常識をもとにこの世界の常識を構築しなければならないということなのだ。
それは自分の全てを彼に委ね、依存するということとほぼ同義である。
リスクと共に心の拠り所を得るか、リスクのない孤独を選ぶのか。
ティキが出会って間もない男で確たる身分も持っていない以上、は後者の立場を選択するしかない。
自分の身を守ることができるのは結局のところ自分だけなのだ。
「がオレを信用できないのはオレが元々浮浪児だったから?」
「!」
黙り込んだに、ティキはその心を読んだかのように言葉を投げかける。
表情を固くした彼女を、ティキは困ったように見つめた。
「、オレはべつに怒っちゃいない。身元のはっきりしない人間を信用できないのは当然のことだ。……はいかにも育ちの良いお嬢さんっぽいもんなぁ」
「…………」
きっと、きちんとした教育を受けてきたのだろう。
ただ優しさを信じて他人を信用することは、この世界においてけして美徳ではない
善悪を見極め、正しい道を選べる者こそが真に教養ある者の姿である。
それを実行でき得るほどの能力がにはあった。
けれど、経験の浅いは、“経験を失った”彼女は、そうすることに対して心に痛みを感じるのだ。
優しさをもらえば、優しさを返したいと思ってしまう。
彼女を手に入れたいと願う者は、その心の隙間に付け入るというのに。
「。おまえがオレを信用できないのはおまえのせいじゃない」
いつの間にか眼鏡をはずした男は、甘い顔でそう囁く。
けして他人を信用してはいけないと、心の奥深いところで叫ぶ誰かの声に蓋をさせて。
「。オレはおまえの心の拠り所になりたいんだ。おまえが安心してオレを信用してくれるなら、オレはなんだって利用する」
「ティキさん?」
は訝しげにその名を呼ぶ。
その声は、きちんと彼に届いていたのだろうか。
「だからいいよ、今はこのままで」
呼びかけには答えず、穏やかにに笑いかけるティキ。
が彼の言葉の意味を知るのは、それからすぐのことだった。
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2013.10.16