全部全部、無かったことにしてあげましょう。
辛い記憶だというのならば、拒絶して何もかも忘れてしまえばいい。
最果てへの片道切符
パタンと戸の閉まる音と共に目が覚めて、は今の瞬間まで自分が眠っていたことに気付いた。
ぼんやりと意識を音のした方に向けると、こちらに近付く人の気配。
「お。目が覚めた?」
その人物はが目を開けていることに気が付くと、の顔を覗き込むようにして問いかけた。
背の高い、白人の男だった。
「こ、こは……?」
見慣れぬ天井と見知らぬ男に訝しみながらは尋ねる。
思ったように声が出せなくて、その声は掠れていた。
「ここはオレの仮住まいだよ。それにしても驚いたなぁ、お嬢さん、空から降ってくるんだもん」
天使が降ってきたのかと思ったよ。
そう言い琥珀色の瞳を弓なりにして笑う男の言葉は、冗談とも本気とも分からなかった。
「……空から…………」
は思わず視線を男から天井へと移す。
当然、ただ薄汚れた天井が見えるだけで青空など見えるはずもなかった。
「知らなかった……わたしってラピュタ人だったんだ……」
自分はいつの間に飛行石の持ち主になったのだろうと馬鹿なことを考えては溜息を吐く。
日本語での小さな呟きに男は、ん? と首を傾げたが、はなんでもありませんと英語で言って首を振った。
だが次の瞬間、その自分の言動にははっと目を見開く。
「あの、わたしっていま何語で話してます?」
「何語って……英語でしょ?」
面白いことを聞くお嬢さんだね、と男は人好きのする顔で笑った。
「ですよねぇ……」
は困惑しながらもそれに合わせてぎこちなく笑う。
自分がごく自然に英語で会話をしていることに、は驚きを隠せなかった。
「オレはティキ。お嬢さんの名前は?」
「あ、です」
相手がファーストネームだけを名乗ったので、もまたそれに倣った。
それにしても、自分は今どのような状況にあるのだろう?
見知らぬ場所で目覚めたかと思えば居たのはこれまた見知らぬ外国人。
不信感を抱きつつ、それでもそれを表に出さぬままには苦笑してみせた。
「というか寝たままですみません。失礼ですよね。今起きま」
今起きますね、という言葉は途中で途切れた。
起き上がろうとした途端ぐらりと視界が回る。
再び頭が枕に戻りそうになったが、咄嗟に両手をベッドについてなんとかそれを阻止した。
「大丈夫?」
ぷるぷると両腕が震える様子を見かねたティキがの背中に腕を回しそれを支える。
「す、すみません大丈夫です。少し眩暈がしただけです」
ティキはの背中に手を添えたままゆっくりと押し重心を前に傾けてくれた。
ようやく自身の力だけでバランスを取れる角度になり、はほっと息を吐く。
更に、ティキが先程までが寝ていた枕をその腰元に添えてくれたことによってよりバランスが安定した。
「ありがとうございます」
「いえいえ」
が小さく礼を言うと、ティキはにこりと笑った。
余裕のできたは自分が今いる場所を見渡す。
そこは六畳間くらいの木でできた小屋のようだった。
見るからに年季の入った木のテーブルと椅子、その椅子に掛けられた上着、使い込まれた鍋にマグカップ、それからあまり大きくない旅行鞄。
綺麗とは言い難い小屋だったが、全体的に物は少ないという印象を受けた。
「あの、ここは住所でいうとどの辺りなんでしょうか……?」
先程場所を尋ねたときは漠然とした答えしか得られなかったので、今度は具体的に尋ねる。
「住所? ここはランメルスベルク鉱山の近くだけど」
ティキは不思議そうな様子で、それでもあっさりとそう答えた。
「ランメルスベルク鉱山?」
どうも日本的な地名ではない。
ベルク、とつくあたり欧州のような雰囲気があるがまさかそれは無いだろうとは自分を納得させた。
だって自分は日本を出た覚えも無ければ、飛行機や船に乗った覚えも無い。
どうしたら突然海外にいるなどという事象が起こり得るだろう?
自身に言い聞かせつつも、拭いきれない嫌な予感にの心臓は早鐘を打った。
「位置的にはドイツのハルツ地方だけど、今はフランスやスウェーデンに占領されてるって感じだなぁ。ま、オレは働けて給料もらえんならなんでもいいけど」
「ド、ドイツ……?」
本当にヨーロッパだったらしい。
思わず素っ頓狂な声をあげたをティキがきょとんと見つめた。
「あれ、もしかしてドイツも分かんない? オレも学がねーからあんまり上手く説明できないんだけど」
ティキは困ったように頬を掻く。
だがはそれ以上に困っていた。
「あ、いえ。ドイツは分かりますがそうじゃなくて……その、わたし、ドイツに来た覚えが無いのですが……」
「ん?」
あたふたと説明をするに、ティキはよく分からないというように首を傾げた。
「わたしは日本に住む高校生でですね、出国した覚えは無いんですよ」
どうすれば自分の状況を分かってもらえるのだろうかと考えつつ説明を付け加える。
「日本? うーん……ああ、あの鎖国してる国か」
ティキは少し考えるようにして首を傾げると、ポンと手を打った。
「いつの話ですか」
思わず強めに突っ込みを入れる。
彼なりのジャーマンジョークなのだろうか?
「いや、普通に今現在の話でしょ」
「え。……え? 今日って西暦何年の何月何日ですか?」
日本はこの国際化が進む世の中でいつの間に鎖国など始めてしまったのだろう。
ニュースを見る限りそんな兆候なんて全く無かったのに。
だが、ティキから返ってきた答えはが想像した範囲の斜め上をいっていた。
「18××年の10月23日だよ」
「18××年!? じょ、冗談ですよね!?」
どうやら日本が歴史上2度目の鎖国を行ったわけではなく、が1度目の鎖国の最中にいるらしい。
ありえない! とは思わず叫んだ。
「いや、本当だけど」
「えっ、だってそんな……え? ええ?」
タイムスリップ!?
いやいやそんなまさか!! 映画じゃあるまいし。
「まぁ落ち着きなよお嬢さん」
目を白黒とさせて混乱しているの両肩にティキの両手が乗せられる。
「離してください!!」
「っと」
は反射的にその両手を振り払った。
「そうだ……電話……ティキさん、わたしの荷物を知りませんか?」
なおも取り乱したまま、はティキを見上げる。
「さ、さぁ……空から降ってきたのはお嬢さんだけだったし」
その気迫に気圧された様子を見せながらも、ティキは落ち着いた声のままそう答えた。
「そ、それも冗談……? すみません、ケータイを入れた鞄が無いようなので電話をお借りできませんか?」
もはやはティキの答えなど求めていなかった。
ただ、誰かに連絡を取らなくちゃという思いだけがを突き動かす。
ティキは小さく溜息を吐いた。
「見ての通り、こんなオンボロ小屋だからさ、電話ないんだよねぇ」
「え!? す、すみませんわたしそんなつもりじゃ……」
ここでようやくははっと冷静さを取り戻す。
いくら動揺していたからとはいえ、ここ30秒くらいのやり取りは初対面の相手にしていいような対応ではなかった。
ましてやティキはの恩人である可能性がある。
若干の怪しさは残るとはいえ、現実問題人身売買されたわけでもなく、肉体的に拘束されているわけでもなく、ただ保護されている。
彼の話を詳しく聞きもしないままに、自分はいったい何をやっているのだろう。
「あはは、気にしなくていいよ。電話なんて普通の家には無いのが当たり前だし。もしかしてはすごくいい家のお嬢さんなの?」
謝罪したいのはそんなことだけではない。
けれど彼が本当に気にしていないというように笑うので、は一連の態度について謝りそびれてしまった。
「いえ、普通の家だと思いますが……」
実際のところ、には自分の家が平均と比べればやや裕福だという自覚はあったが、今している話はきっとそういうことを言っているのではないだろう。
固定電話を置かない家が近頃増えているとはいえ、携帯電話を持っていない人というのは今どき珍しい。
「ふぅん? まぁいいけどね。電話は駅か街まで行けばあるんじゃないかな」
連れて行ってあげようか? と首を傾げたティキに、は一も二もなく頷いた。
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20120706