ぐらりとの体が傾く。
ふとが視線を前に戻すと、そこは切り立った崖のようになっていた。
認識した瞬間、一気に全身の血の気が引く。
「っぎゃああああああああ」
体に感じる浮遊感に、は絶叫した。
なんで崖なんかになってるの!? という彼女の心の悲鳴は音にはならなかった。
最果てへの片道切符
わたし、テーマパークの絶叫系は平気だけど、紐なしバンジーはさすがかに無理です。
ふつうに死にます。
ああ……わたしの人生こんなところで終わるの?
こんなわけわかんない状況のまま?
うわー……やってられない……。
こんなことなら人生もっと楽しんでおくんだった。
青春時代を勉強に費やしてしまったよ。
せめて死ぬときは即死でありますように。
痛くありませんように。
ひゅーっという効果音の中、はあさってのほうを見つつ考える。
……すごく、落下時間が長く感じる。
どれだけ長い崖なんだ。
死ぬならせめて楽になんて馬鹿なことを考えていただったが、落下時間が長い分考える時間も長くなり、やはりこんなところで死ぬのは嫌だと思い直す。
だって、こんなところで死ななきゃいけないなんてあんまりだ。
死にたくない、死にたくない。
だってははまだなにもやっていないのだ。
身を焦がすような大恋愛も、ここまで育ててくれた両親への孝行も、まだなにもしていない。
こんなところで死んでたまるか!
ほとんど無意識に、扇を握り締めていた手が動いた。
ザッと音をたてて、扇が開く。
ようやく地面が見えてきたとき、は思い切り扇で空を扇いだ。刹那、
――ぶわっ
大きな風が巻き起こった。
思わず目を瞑る。
風はの体を包み込み、はそのなかでくるりと1回転した。
ぱっと目を開ける。
気が付くと、落下速度が明らかに落ちていた。
体に感じる空気抵抗はさきほどよりもずいぶんと少なく、まわりを見渡す余裕ができる。
地上はもう間近だった。
不思議と恐怖はない。
あと、すこし。ほんのすこし。
……とんっ…、わずかな空気のクッションがあるのを感じつつ、は静かに地上へと降り立った。
ほんのすこしの間、放心状態で立ち尽くす。
「…び、びっくりした……」
まじまじと手元の扇を見つめて、は呟いた。
刀を受けとめたかと思ったら、今度は大きな風を起こした扇。
どう考えても普通の扇ではない。
なら、いったいなんだというのだろう。
今のに、答えを導き出せるほどの知識はなかった。
分からないものは分からないのだ。考えるだけ無駄だろう。
ふぅと息をついて、はぐるりと辺りを見渡す。
すこし遠くに、街があるのが見えた。
……とりあえず、あの街を目指そうか。
は自分のまわりをぱたぱたと飛んでいた1匹のコウモリもどきを、持っていた扇でかつんとたたき落とす。
どうもそれは通信手段として使われていたようだから。
念を入れておくことに越したことはないだろう。
手に持っていた扇をポケットに突っ込んで、は歩きだした。
「うう…なんでこんなときに限っておろしたての靴なんだろう……」
さきほどあんな森のなかを全力疾走できたのなんて奇跡に近い。
……あのときは必死だったからなぁ。
じわじわと足が痛むのを我慢しながら、は歩いていた。
街はもう目前。
「それにしても……わたし、ほんとどこにきちゃったんだろう」
街を遠目で見て、わたしは呟く。
目の前の街は、どう見たって日本ではなかった。
街のなかに入ったはそれを確信する。
石造りやレンガの建物が並び、街を歩く人々はどうみたって西洋風な顔立ち。
道を走っているのは自動車などではなく馬車ばかりで、日本じゃないどころか時代さえ違うのではないかとは思う。
「わけわかんない……」
とりあえずさっさと警察署なり交番を探そう。
ただあてもなく探すよりも誰かに聞いたほうが早いだろうとが適当な人物に話し掛けると、そのひとはアジア人が珍しいのか、そんな様子を隠そうともせずジロジロとを見た。
決していい気分はしないだったが、説明の仕方だけは丁寧だったので、は素直に礼をいって教えてもらった場所を目指した。
教えてもらった警察署の門をくぐると、たくさん視線がに集まった。
そんなに日本人が珍しいのだろうか。
国際社会だといわれているこの世の中、日本人などそんなに珍しいものではないと思うのだけど。
は受付だと思われる人間に、Excuse me(すみません)と声をかける。
はい、なんでしょうとやはり英語で返ってきて、は話を切り出した。
「あの、変な人に追われて気が付いたらここにいたんですけど、ここどこですか?」
「変な人? ここはエディンバラというところですよ」
受付の女性はの質問に一瞬不思議そうな顔をしたものの、丁寧に答えてくれる。
「エディンバラ?」
「ええ。イギリス北部、スコットランドの中心都市です」
ほ、ほんとにここイギリスだったんだ……。
は内心冷や汗を流した。
なんでわたし、イギリスなんかにいるんだろう。
「あの、わたし日本にいる両親と連絡を取りたいんですけど可能ですか?」
「え? 日本ですか?」
「? はい」
「あなたは日本人?」
「はい」
「……えーと……日本は今鎖国状態にあるはずなんですけど、ご存じありませんか?」
「……はい?!」
は自分の耳を疑った。
え? 今このひとなんて言った?
鎖国?
"national isolation "という単語を聞き取って、は困惑する。
おい! 鎖国っていったいいつの話だよ!
江戸時代じゃん!
「え……、鎖国なんてなにかの冗談ですよね?」
「いえ、本当ですが……」
「すいません、今って西暦何年ですか?」
「西暦? 18xx年ですよ」
「18xx年!?」
「どうかされましたか?」
「あ、いえ、」
「そういえば先程、変な人に追われているとおっしゃられていましたが大丈夫ですか?」
「あ、はい、それはたぶん大丈夫で……」
――バタン!
が言い掛けたところで、突然入り口のドアが開いた。
は反射的にそちらのほうを見る。
「ようやく見つけたぜ。……ったく、手間取らせやがって」
「!」
入ってきたのは、がさきほど森で出会った日本人だった。
話している言葉は依然英語だったが、その言葉はどう考えたってに向けられている。
「こ、このひとです! わたしを追い掛けてきた変な人!」
「ああ?!」
が叫ぶように言うと、男は明らかに不機嫌そうな声を出した。
「え、こちらの方ですか?」
「はい! 助けてください」
受付のひとは、少し戸惑ったようにわたしに聞く。
わたしは勢いよく答えた。しかし受付のひとは更に戸惑ったような顔をする。
「でもこの方、胸元にローズクロスの印が……」
「ローズクロス?」
叫ぶように聞き返した瞬間、の首根っこをがしりと掴まれた。
思わずうわあと声をあげる。
掴んでいるのは、確認するまでもなく森で出会った男だった。
「ちょっ! 離してください!」
「うるせぇ! 離したら逃げるだろうが!」
「そんなの当たり前じゃないですか!」
の叫びを無視して、男はは受付のほうを見る。
「おい、こいつは黒の教団が引き取る。問題ないな?」
「え、ええ……黒の教団ということでしたら……」
「は? なに? どういうことなの?!」
「お前は黙ってついてこい」
「え? なに? ってギャー!」
男はの首根っこを持ったままを持ち上げ、そのまま肩に担ぎ、俵持ちにした。
なにこのぞんざいな扱い、とは憤る。
「おろしてよ!」
「黙れ。暴れるな」
「そんなこと言われたっ……て……?」
言っている途中で、首に強い衝撃を感じた。
あっというまに意識が遠くなる。
「…………な……」
口から発した声は言葉になることはなく、の世界は、そこで暗転した。
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2007.9.18