ぞわり。
「…………っ!」
その街に踏み込んだ瞬間、周りの空気が変わったのをは確かに感じた。
さん?」
同行していたファインダーが、立ち止まったを不思議そうに振り返る。
「あ……」
この感覚を、なんと言い表わそうか。
お湯だと思い、お風呂に足を入れたら、冷水だったというような。
今すぐ元来た道を引き返してしまいたい。
僅かに片足を後ろに引き、この領域からの脱出を試みるが、はすぐにそれが不可能であることを悟った。
前に踏み出したままの右足。
確かに後ろに引いたはずなのに、その足は元の位置に戻っている。
ああ、
(ああ……捕まった)
教団には、いつ帰還できるだろうか。





最果てへの片道切符





街の中心部にある、小さな教会。
その入り口に立ち尽くして、は溜息を吐いた。

“ファインダーたちが返ってこない原因が、会いに行った神父にあった場合、身分を隠しもせずに教会に乗り込むのは危険です”

そんなの提案により、と付き添いのファインダーはいったん私服に着替え、さらに二手に分かれることとなった。
より危険性の高い教会にはが。
街の住人への聞き込み調査にはファインダーが。
正直そんな怪しげな教会になど行きたくはなかったが、こればかりは仕方ない。
教団内では一応ちゃんとした“エクソシスト”で通っているのだ。
そんなが実はのらりくらりとアクマ退治から逃れていることなど、少なくともファインダーの中に知る者はいないだろう。
必死に作り上げた今の立場。
そう簡単にボロを出す訳にはいかない。
そのことを考えれば、は必然的に教会を調査せざるをえないのだ。
とはいっても、この街は、街自体に妙な術が掛けられている。
ファインダーたちが帰ってこれない原因がこれだとしたら、教会はさほど危険ではないだろう。
いつか神田と行った任務のように、イノセンスが原因だろうか。
街に足を踏み入れた瞬間のあの奇妙な感覚が引っ掛からないでもないが。
もし仮にアクマが原因だったとしても、ローズクロスさえ無ければ、いきなりアクマに襲われて死ぬということはないだろう。
の団服はリバーシブルに作られており、裏返せば普通のコートに見えるようにデザインされている。
丈夫さは団服そのものであるので、なかなか重宝するものだ。
閑話休題。

「……まあ、入るしかないよねー」
誰にでもなく呟いて、目の前の教会の扉を押す。
きちんと手入れが施されているのか、とても古そうに見えるその扉はすんなりと開いた。
「…………」
建物の中に足を踏み入れて、思わず言葉を失った。
まず最初に目に入ったのは大きなステンドグラス。
海辺を漂う船に、たくさんの種類の動物たち。
微笑を称える女性。
青を基調としたコントラストが幻想的で美しい。
「礼拝者の方ですか?」
「!」
ぼんやりとステンドグラスを見上げていると、声を掛けられた。
突然のことに、はびくりと肩を揺らして声のした方を向く。
「すみません、驚かせてしまいましたか」
「い、いえ……」
立っていたのは、冴えない出で立ちの男だった。
あまり外に出ないのか生白い肌に、瞳を隠すようなビン底眼鏡、寝起きのような無造作な髪。
着ている神父服だけが、彼の身分を明らかにしている。
一見人畜無害そうだが、ただひとつだけ、ゆったりとした神父服を着ていても分かるしっかりとした体つきだけが、に警戒心を抱くことを怠らせなかった。
「こちらの教会の神父さまですか?」
「ええ。お嬢さんは今日はどんなご用件で?」
口元だけで相手が微笑んでいるのが分かるが、眼鏡のせいでその目は見えない。
彼は本当に微笑んでいるのだろうか。
「わたし、つい最近この辺りに越してきたんです」
だから、ご挨拶しておこうと思って。
にこりと、けれどどこか寂しそうには微笑んでみせる。
さあ、食い付け。
の目論み通り、おや、と神父は首を傾げた。
「そうでしたか。……しかし、あなたの表情を見るかぎり、新しい生活への期待に満ち溢れているというわけではなさそうですね。なにか不安なことでも?」
私でよければ力になりますよ。
そう優しく言う神父に、は静かに首を振ってみせる。
「それでは、なにか悲しいことでも?」
「…………恋人を、亡くしてしまったんです」
彼の思い出の残る街にいるのは、あまりに辛くて。
「……なるほど、それで引っ越されたんですね」
そっと目を伏せ沈黙し、はそれを肯定する。
まるで悲劇のヒロインのように。
人は自分よりも不幸な者に優しいものである。
相手の信用を得るには、まずは相手の懐に入らなくてはいけない。
「可哀相に……」
案の定、神父はに同情したようだった。
神父はの両肩にそっと手を乗せる。
ああ、これでこの神父の外見がまともだったら少しは絵になるだろうに。
がそんなどうでもいいことを考え、次の台詞を紡ごうとした瞬間。

「なら、オレが慰めてあげようか?」

がらりと、神父の雰囲気が変わった。
「え……?」
伏せていた目を見開いて、は神父を見上げる。
神父は眼鏡を外し、にこりと笑った。
どこか獰猛さを含む笑い方だった。
「あ、あの……神父さま?」
「ん?」
明らかに動揺しているを見つめて、神父は楽しそうに返事をする。
なにがなんだか分からない。
「どうして眼鏡を外す必要が?」
眼鏡を外した神父は、なかなかに端正な顔をしていた。
「……お嬢さんに分かりやすい言葉で言うなら、“邪魔だから”かな。眼鏡を外したオレ、なかなかカッコいいでしょ?」
ずい、と神父の顔が近付く。
はそれを避けるわけでもなく、ただ困惑して男の目を見つめた。
「え、まあ、眼鏡を掛けているよりは素敵かと思いますが……そうじゃなくて」
相手の質問に思ったことを素直に答えただったが、問題はそういうことではない。
なにがどうなってこうなった?
「ならいいだろ? 全部忘れちまえよ、可哀相なお嬢さん」
そう甘やかに囁く男の吐息が近い。
もうほんの少し近付いただけでも唇が触れ合いそうだ。
けれど、はなぜかこの距離に対して不安はなかった。
どこかで、絶対に唇を重ねることはないだろうという確信があった。
それよりも、気になるのは彼の言葉だ。
「あの、何の話をされているのでしょうか」
いったいなにが“いい”のか。
いったいなにを“忘れろ”というのか。
いったいなにが“可哀相”だというのか。
先程した、死んだ恋人の話?
否、この男がしているのはおそらくそんな話ではない。
もっと別な……。
「忘れられれば幸せになるだろ? なあ?





――続くことのない世界に落ちてきた可哀相なお嬢さん」





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20100501