裏切られた?
いいや、違う。
ただ、ちょっと忘れていただけ。
誰も助けてくれるはずなんてない。
自分の身を守れるのは自分だけだと、わたしは知っていたはずじゃないか。
わたしを駒としか思ってないようなこの世界に、期待なんてしていない。





最果てへの片道切符





黒の教団本部食堂にて。
ジェリーに用意してもらったアフタヌーンティー用のセットを落とさぬよう気を付けながら、はそっと自分の席へと向っていた。
例の期限が過ぎてから早数週間。
教皇庁の任務を知ってからわずか1日。
今日も今日とてを転ばせようと道行く途中に伸ばされた足に、彼女は口元を歪ませた。
毎回毎回ワンパターンですこと。
たしかに今日はケーキの乗ったタワーの関係上前が見辛いが、毎日こんなことをされていれば警戒くらいされると考えるのが普通だ。
だがしかし、今日のはあえてその足を踏み付けると、それに足をとられて、きゃっ、と転んでみせた。

――がしゃーん

いてっ、という男の小さな悲鳴が聞こえたと共に、持っていたアフタヌーンティーのセットが投げ出されて、美しい食器が床で割れる。
ケーキと紅茶が飛び散って、周りにいる何人かの服を汚した。
ざまみろ。
服を汚された人間の、おい、という怒声と、くすくすという笑い声が周囲から聞こえてくる。
はっとしたように、が自分をわざと転ばせただろう人物を振り返れば、その男は足の痛みを堪えつつも、自分の成し遂げたことにやにやと笑みを浮かべていた。
「あっ、すいませーん。オレの足長いものでー」
を心配するわけでもないバカにしたような声。
ぎゃはは、と周りから品のない笑いが起こる。
その仕打ちに、はへにょりと眉を下げた。
実際に、あんまりだ、と思ったのも事実であった。
だから、目元にじわりと涙を滲ませてみせることなんて、今のには容易にできる。
そんなの嘘泣きに気付かない男は、いささか動揺したようだった。
女性の涙に動揺する程度には、まともな男らしい。
「な、なんだよ。謝っただろ」
「…………」
けれどもあまりの言い様。
そんな相手の態度に、はきゅっと口を結ぶ。
言葉は口にしないに、男は言い募った。
「だいたいにして、オレだって足踏まれて痛かったんだからお互い様だろ!」
「…………ごめんなさい。けれど、」
は俯いて涙を堪えるふりをする。
その肩が震えている様子は、見る人が見れば、彼女が堪えているのは涙ではなく笑いだと気付くようなものだったが、幸いにして誰も気付くことはなかった。
彼女は震える声で口を開いた。
「……わ、たし、なにかみなさんのお気に障るようなこと、しました……?」
今まで、理由も分からぬ仕打ちにさんざん耐えてきた。
けれど、もう限界だ。
まるでそんな様子で泣き出した彼女。
ざわりと、食堂の空気が揺れた。
を転ばせた男が、隣にいた友人であろう男と顔を見合わせる。
「な、なにかって、エクソシストのくせに戦う気がないなんて、これくらいされて当然だろ。オレたちファインダーは、命をかけてエクソシストのサポートをしているっていうのに!」
自分の発言なんてなにひとつ疑わぬ男。
そうだそうだと頷く声が周りから聞こえてくる。
だがそんな彼の自信にひびを入れるように。
彼自身が自分の発言に疑問を抱くように。
は目を瞬かせた。
「……戦う気が、ない?」
男の言葉に驚いている様子のを見て、男もまた驚く。
彼女のその驚き方は、真実を知られて驚いているというよりも、寝耳に水といった驚き方だったからだ。
「あ、あれ?」
ざわざわと、周囲が騒めきだした。
あたふたとする男に、は首を傾げてみせる。
そんなの様子に、なんだかおかしいぞとようやく思い始めた男。
このときすでに彼女の術中にはまっていることなど気付くはずもなく、男は慌てて弁解を始めた。
「て、手紙が入ってたんだ」
「手紙……?」
訝しむ様子のに、男は続ける。
「何週間か前に、全員にじゃないけど、手紙が届けられてた。“エクソシストのは、この世界のために戦う気などないらしい”と」
は目を見開いた。
「そ、そんな……!」
よろり、とショックを受けた様子で床に手をつく彼女。
「わたし、わたし……!」
ぼろぼろと涙を零しはじめたに、男はぎょっとした。
「え、あ、な、泣かないでくれよ……」
この時点で、自分は大きな間違いをしているのではないかと疑いだしていた男は、の涙に本気で慌てた。
「わ、わたし、みなさんにそんな風に思われてたなんて……。っ、だから、みなさん、ここ最近冷たかったんですね……うっ、うう……」
そして、本格的に泣き出したに慌てたのはその男だけではなかった。
ただ様子を見ていただけの人間も、顔を見合わせて困ったような表情をする。
誰かが口を開いた。

「そういえば、誰か真相について本人に聞いたことあるのか?」

もっともな疑問に、誰もが一瞬沈黙した。
しばらくして、その疑問を口にした人物の近くにいただろう者が気まずそうに答える。
「いや、オレは聞いたことないけど……」
やはり沈黙が降りた。
そこにいる人物全員が、顔色を悪くさせていた。
「考えてみれば、本人に聞いたわけでもないのに、なんで手紙の内容なんて真に受けたんだ?」
「つーか手紙ってもしかしてただのイタズラ?」
「彼女の様子を見るかぎりそうなんじゃないか?」
「うっわ、悪質だな……」
もはや誰ひとりとして、自身に答えを求めてはいなかった。
彼らに囲まれ、華奢な肩を震わし、すすり泣く彼女の姿はそれだけで庇護欲を掻きたてる。
ざわざわと響く声を耳に入れながら、はすんと鼻をすすった。
「だっ、だれがこんなこと……わた、わたしっ、運動とか得意じゃないけど、みんなの足を引っ張らないようにって、毎日頑張ってたつもりだったのに……うっ、ひっく」
それ以上は言葉にならなかったのか、わっと泣き出して顔を覆った
だめ押しだった。
この時点で、彼女になにかを尋ねることができる者はいなくなった。
近くにいた団員たちが、弱々しく泣くのもとに駆け寄る。
「ご、ごめんねちゃん。オレたちちゃん本人に何も聞かずに……謝って許してもらえることじゃ、ないかもしれないけど」
「顔も分からない手紙の差出人よりも、ちゃんの方がずっと信用できるのに」
ちゃん、毎日休まず訓練してたもんね。疑ってごめん……」
慌てて謝ってきた団員たちを見上げて、は首を振る。
なるべくか弱く見えるように。
なるべく健気に見えるように。

「みなさんが悪いわけじゃありません……どうか、お気になさらないでください。分かってもらえたなら、わたしはそれで十分ですから」

泣きながらも、それでも必死に笑おうとする
そんな彼女の姿を見て、団員たちは心が痛かった。
ああ、なんでこんなにも健気な子を泣かせてしまったんだろう。
その小さな背中に背負っている十字架の重さを、自分たちは知らないわけではなかったのに。
その身体が折れてしまわぬように。
オレたちが彼女をサポートして、守ってあげなくてはいけない。
このとき、この場所にいる団員たちの心は、たしかにひとつだった。

は静かに微笑む。
嘲笑は、そっとその仮面の下に隠して。
彼らの考えることなんて、計算のうち。

ただの駒になんて、成り下がるものか。





「……あいつまじこえー」
「………………」
食堂の隅で顔を青くする橙色と黒のエクソシストの存在に気付いた者は、幸か不幸か誰もいなかった。





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20091109