つくづく思うことは、やはり彼女にはデスクワークが向いているということだ。
「コムイさーん、こっち終わりましたー」
「え、もう!? じゃあ今度はこれお願いできる?」
「はーい」
最初は使い辛そうにしていた羽ペンも、今ではさらさらと美しい動作で使いこなしている
相当ノッているのか、小さな音量で鼻歌を歌いはじめた彼女を、コムイは興味深そうに眺めた。
聞いたことのないその旋律は、彼女の故郷のものだろうか。
どうやら書類に化学式が現れる度に途切れるらしいその鼻歌は、けれどもすぐに再開されて、彼女の化学への知識の深さを思い知らされる。
なるほど、彼女自身が言うように、彼女は相当水準の高い教育を受けていたようだ。
一応、才能のあるの科学者ばかりを集めた教団本部ではあるが、もしかすると中には彼女に劣る者もいるかもしれない。





神はなぜ、そんな彼女には到底似つかわしくない試練をお与えになったのか。





最果てへの片道切符





「わたしにとっては、過去の偉人たちの残した知識をただ暗記しただけに過ぎないんですよ」
純粋に、キミはすごいね、と言ったら、苦笑いと共にそんな答えが返ってきた。
あまりにあっさりとしたその物言いに、たしかに彼女にとっては大したことではないのだろうことが伺い知れる。
いわく、自分は世界にある知識の、たとえば分野を化学だけに絞ったとしても、ほんの1パーセントでさえ知らなかっただろうということだ。
彼女のいた世界には、どれほどの技術が溢れかえっていたのだろう。
科学者としての底のない好奇心と知識欲を心の中に留めて、コムイは考える。
自身に彼女のいた世界を尋ねるのは、あまりに無神経だ。
けして帰ることの叶わぬだろう故郷のことを、無暗に彼女に語らせるのは。
たとえ、命に関わるもの以外全てを捧げるという契約を、が教団と交わしているとしても。
だから、コムイは想像する。
自分の想像力をも越えているだろう世界を、それでも思い描く。
彼女が愛していた世界は、きっとこの上なく美しいに違いない。





ふいに、の鼻歌が止んだのが気になって、コムイは顔を上げた。
処理をする書類に化学式が現れるたび、彼女の鼻歌が止まることには気付いていたが、今回はまたずいぶん長い。
よほど難しいものでも交ざっていたのだろうか。
「……コムイさん」
「ん? 分かんないトコでもあった?」
すぐさま返された返事に、ようやく今まで見られていたことに気付いたらしいが顔を上げる。
かち合った視線に、はとっさにどんな顔をしていいか分からなかったのか、曖昧な表情を浮かべた。
「コムイさんは、なんでそんなにわたしに優しくしてくださるんですか?」
何気なさを装って投げ掛けられた問いに、けれどその中に彼女の真剣さを見付けて、コムイは一瞬黙り込んだ。
「それは……」
言い淀んだコムイに、は言葉を重ねる。
「わたしなんかに優しくしても、得することなんてないでしょう?」
「っ、損とか得とか、そういうことは関係ないよ」
思わず叫ぶように言えば、彼女は苦笑した。
まるで、コムイの台詞なんて予想していたというような苦笑だった。
けれど、とは言葉を紡ぐ。
「それは、ほんとうに?」
じっとこちらを見つめる瞳が揺れていることに、コムイはようやく気付いた。
彼女は、なにが言いたい?
ちゃん?」
彼女の様子が気になって、自分の席を立ち上がる。
机を回り込み、向かい側に座っていたに近づけば、彼女はうっすらと笑った。
ただ、それはどこか無理をしているような、泣きそうな笑みだった。
ちゃん、いったいどうしたって……」
いったいどうしたっていうんだい?
コムイのその言葉は、最後まで紡がれることはなかった。

――くしゃり

紙を握り潰す音が、ふたりきりの司令室に響く。
の左手が、処理をしていたデスクの上の書類を掴んでいた。
ちゃん、なにして……」
ぎょっとしたコムイに、はその書類を突き出した。
「……?」
首を傾げながらも、コムイはそれを受け取る。
だいぶしわの寄ったその書類は、特殊な暗号を用いて書かれていた。
それは教皇庁と黒の教団が文書を取り交わすうえで文書の内容が極秘であるときに用いられる暗号。
暗号とはいっても、英語とラテン語、その他少しの語学と科学の知識(教団内で求められる“少し”がどのレベルかという問題は置いておく)があれば解けるものだ。
部屋が散らかっていたため、紛れ込んでしまったのだろう。よくあることだ。
なるほど、これが読めなかったのかと納得しようとして、それにしては様子のおかしいに胸騒ぎを覚える。
軽く書類に目を通し内容を理解した瞬間、呼吸が止まるかと思った。
「は……はは……この書類は暗号だからは読めなかった、かな?」
むしろそうであってくれと乾いた笑いを浮かべたコムイに対して、は表情なく彼を見た。
そしてふっとまるで自分自身を嘲るように笑うと、俯いて口を開く。
「いっそ読めなかったら、どんなによかったでしょうね」
深い闇を含んだその声に、取り返しのつかない事態になったことをコムイは悟った。
ちゃん、これは、」
に恋をさせる任務? ふふ、バカじやないですか?」
コムイが喋ろうとしたのを遮って、は言う。
その書類に書かれていたのは、教皇庁から黒の教団へ指令だった。

“エクソシスト・が黒の教団の団員に恋をするように仕向けろ。相手はできれば同じエクソシスト、もしくは重役がいい。この世界に愛する者ができれば、しかもその者がこの世界を守りたいと願っている者ならば尚更、彼女は喜んでこの世界のために命を差し出してくれることだろう”

続けて、その書類にはをいかにして恋に落ちさせるかの案がいくつも挙げてあった。
その中で最も目を引いたのが、

“近々、に「エクソシストとしての任務をまっとうしなければ、教団と交わしている契約をばらす」といった内容の脅迫状を出す。期間は(中略)。任務を行う団員には彼女の異変にいち早く気付くふりをさせ、彼女にその団員のことを印象付けること。また、彼女はその脅迫に従わぬ可能性が高いため、実際に契約の内容が他の団員たちに露呈した場合、その者にはなにがあっても彼女の味方につかせること”

英語を除けば、にとってラテン語はこの世界に来て最初に勉強した言語だった。
伊達に自室に引きこもっていたわけではない。
普段触れる機会のない言語を勉強するのはなかなかに楽しかった。
実際に話す人がないので会話はできないが、文献ならばそれなりに理解できる。
また、幸か不幸か、教団を抜け出し1年以上世界を放浪していたにはその他言語の知識もあった。
科学の知識については言わずもがな。
「ふふ、ふふふふふふふ……。とんだ茶番だったわけですねぇ」
狂ったようなの笑い声。
けれど、彼女の目には涙が浮かんでいた。
はコムイが口を挟む隙を与えず、続ける。
「ああ、なるほど、なるほど。おかしいとは思っていたんです。リナリーがわたしに好きなひとを聞いてくるなんて」
そう、最初から予防線は張っていた。
こういった作戦は、予想していないわけではなかったのだ。
だから、まさか司令官自らこんな作戦を実行することはないだろうと思って、彼の名前を出した。
その“まさか”は実行されてしまったわけだけれども。
ちゃん、謝って済む問題じゃないのは分かってるけど、本当にすまな」
「いいんです、わたしの認識が間違ってただけですから」
は、コムイが最後まで謝罪することを許さなかった。
ゆるゆると首を横に振って、穏やかな声で言う。

「……最初から、エクソシストであることを拒むわたしに、味方なんてできるはずなかったんです」

酷く泣きそうな笑みを浮かべたは、見ていて痛々しかった。
彼女は静かに席を立つと、コムイの横を通り抜ける。
通り抜ける瞬間に、彼女は小さな声で言った。

「けれど、わたしだって傷付くことくらいあるんですよ」

「…………っ」
彼女が出口へと向かう速度はとてもゆっくりなのに、止められない。
彼女を引き留める言葉が見つからない。
ちゃ……!」

――バタン

ようやく発した言葉は、ドアの閉まる音に紛れて消えた。
ひとり部屋に残されたコムイは、憮然と立ち尽くす。

……ああ、なんということだろう。

違う。違うんだ。
彼女を傷付けたかったわけじゃない。
彼女がこの世界で誰かから愛されるようになって、そしてまた彼女自身も誰かを愛するようになって。
そしてこの世界を愛して、慈しんでくれるようになれば、彼女自身も幸せになれると思ったんだ。
誰に強制されるわけでもなく。
誰かの脅しに怯えることもなく。
純粋に彼女がこの世界を守ろうと思うようになってくれるのならば。
自分が、その相手に、彼女の心の拠り所になれるのならば、なってあげたいと思っていた。

どうして、この世界は彼女に優しくしてはくれないのだろう。

そんなことばかりを、考えた。





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20091029