気を抜いていたわけではない。
けれど、どうにも避けようのない場合というものはあるわけで。
「……っ、変態共め」
トイレの個室。
去っていく数人分の足音を聞きながら、全身ずぶ濡れ状態では日本語で罵った。
体に張りつく衣服が気持ち悪い。
犯人は男、しかも複数だった。
彼らは細心の注意を払ったつもりだろう。
頭上から水が振ってくるまで、彼らの間に会話は一切なかった。
だが、詰めが甘い。
このトイレの個室の扉は、下の方が数センチ空いている。
そこから見えた靴は、間違いなく男物だった。
女子トイレまで追いかけてくるとは、相当な執念だ。
人格を疑う。
「あーあ、なんかもうやだ。また逃亡したい」
わたしの平和は、いったいどこに消えたのだろう。





最果てへの片道切符





全身ずぶ濡れだからといって隠れて歩くわけでもなく。
歩いた跡に点々と水を残しながら、は教団の廊下を悠々と歩いていた。
時々向けられる嫌悪の視線や、嘲笑なんて今更だ。
もうどうにでもなればいい。
こんな状況、平気なわけじゃない。
けれど、どうしようもないのだ。
自分は、己の命を選んだ。
そのことで憎悪されるいわれなんて、本当はないとは思うけれど。
こんな世界ならば、いっそ、
ちゃん!?」
半ば思考が危険な方向へ行きかけたとき、背後から名前を呼ばれた。
かけられた声に、はゆっくりと振り返り、
「あ、コムイさん」
久しぶりに向けられた、悪意のない視線にへらりと笑ってみせる。
ぐるぐると渦巻いていた感情も、それと同時にどこかへやって。
しかし、コムイの方といえば、ほど穏やかではいられなかった。
「“あ、コムイさん”じゃないよ! どうしたんだい!? その格好」
「水もしたたるいい女でしょう?」
驚愕に目を見開くコムイに、はうふふと笑ってみせる。
だが、疲れの滲むその笑みに、コムイは眉を寄せた。
ぽたり、と結んでいない彼女の髪から滴が落ちる。
心なしか、彼女の顔色は悪かった。
コムイは痛々しいものを見る目付きでそれを眺めた後、すっと屈んでに視線を合わせた。
「なにが、あった?」
そういって声を落として、そっと両肩に手を置かれる。
その声が真剣すぎたものだから、は曖昧な表情を浮かべた。
「あー……実はかくかくしかじかで」
「いや、全然通じてないんだけど。ちゃん、かくかくしかじかって言えば伝わるって思ってない!?」
「あはは、思ってませんよー」
「あはは、だよねー……って、それなら尚更ダメじゃないか!」
いつもは完全に突っ込まれる側のコムイが、思わずノリ突っ込みをした。
「コムイさん元気ですねぇ」
そんなコムイを見て、は感心したような声をあげる。
「誰のせいだと思ってるんだい?」
感心している場合ではない。
「ええ〜……わたしのせいなんですか〜……?」
疲れた様子のコムイに、は不満そうに返した。
どうにも、彼女のペースに乗せられる。
コムイは内心舌打ちした。
どうやら、この件について彼女は何も語る気はないらしい。
これ以上問い詰めたところで、同じようにのらりくらりとかわされるのだろう。
そう想像して、コムイは溜息を吐いた。
「はぁ……もう、仕方ないね。ちゃん、こっちにおいで」
そんな言葉と共に、コムイは着ていた白衣を脱ぎ、の肩にかけてやる。
一瞬、の肩がびくりと動いたのに困ったような顔をして。
「あー……ごめん! 白衣自体は洗ったばかりだけど、ずっとむっさい男たちに囲まれてたからさぁ。もしかして、匂う!?」
オーバーなくらいのリアクションで、うわーんどうしよう!? と叫ぶコムイ。
それが演技だとは分からないはずもなかったけれど。
は思わず、くすりと笑った。
そんなを見て、コムイもほっとしたような表情で笑う。

「……優しい香りが、しますよ。ありがとうございます」

ああ、どうしよう。
わたしにとっては、とても残酷な世界なのに。
自分自身のためにしか生きられないわたしは、疎まれる存在であるのに。
誰かに優しくされれば、こんなにも嬉しくて、泣きたくなる。

この教団内で唯一、ローズクロスの印が入った白衣の前身頃を胸の前に手繰り寄せて。
いとおしそうに目を閉じたにコムイが赤面したのを、彼女自身は知るよしもなかった。





34 ←   → 36






20090926