「おかえりなさい、神田さん」
一度は視線を逸らしておきながら、あまりに何事もなかったように口を開いたに、ぎょっとしたのはひとりだけではなかった。
スーマンなんかはまんま目を見開いてを凝視したし、コムイでさえ不自然な笑顔で固まった。
声をかけられた当の神田は、「あ、ああ」などと戸惑った返事を返してから、はっと思い出したように眉を寄せる。
「なぜ、ここにいる」
ものすごい、低音だった。
彼の心情が十二分に滲み出ているその声を聞き、密かにおののいている男ふたりをよそに、はゆったりと微笑む。
まるで空気を読めていない笑みだった。
「神田さんに会いたくて」
うふふ、と笑いながら告げられた台詞に、神田は一瞬固まる。
なにかがぶちりと音をたてた。
「よーし、歯ァ食い縛れ!」
六幻を抜刀した鬼神のごとき表情の神田を、慌てて押さえるスーマンとコムイ。
普段はもっぱら取り押さえられる側のコムイが、初めて取り押さえる側に回った瞬間であった。
最果てへの片道切符
「そういえばちゃん、シンクロ率が上がってるね」
「……え…………?」
いち早く戦線を離脱したスーマンは自室に逃げ帰り、今この場にいるのはと神田とコムイのみであった。
突然告げられた言葉に驚きの声をあげるの横で、神田もまた訝しげに顔を顰める。
それは、教団に連れ戻されてすぐに測定された、イノセンスとのシンクロ率の計測結果であった。
「教団からの逃亡生活中に、何があったんだい?」
「…………」
これは、コムイにとってもまた予想外な事実であった。
教団にいた半年間、どれほど訓練をしてもたったの1パーセントでさえ上がることのなかった彼女のシンクロ率。
それほど、頑なだった心。
それなのに、この1年間でいったいなにがあったというのだろうか。
「なにも……ありませんよ」
なにかがあったことを断定したような質問。
それでも、声が震えるのを自覚しながら、は否定の言葉を紡いだ。
無論、心当たりがないわけではない。
これは、スーマンに語らなかった話の多くのうちのひとつだ。
(アレン、くん……)
ほんの少しの間だったけれど、同じ時間を共有した少年。
ただ純粋に自分を慕って、守ろうとしてくれた。
なんの疑いもなく、なんの打算もなく。
目を覚ましたとき、すべてを知ったとき、あの優しい少年はいったいなにを思っただろうか。
黙り込み、どこか思い詰めた表情を浮かべたに、コムイは小さく溜息を吐く。
「ちゃん」
そして、感情も表情もなにもかもを消して、コムイは彼女の名前を呼んだ。
僅かに顔を上げたに、コムイはそのままの調子でいう。
「ちゃん、教団と取り交わした契約は覚えているね?」
その言葉に、の片眉が持ち上がった。
ここで、その話を持ち出すのか。
明らかに不快の表情を浮かべてから、しばしの間思考をめぐらせて、ああ、と思い当たる。
(なるほど、命の代わりに心を差し出せというわけか)
命に関わるもの以外すべてのものを、教団に提供する。
これが、教団と交わした契約だ。
その代わりに、教団はの身の安全と衣食住、そしてエクソシストとしての地位を保証した。
エクソシストとしての価値を大部分失ってなお、彼女の肩書きがエクソシストなのは、そこに教団の打算があったからだろう。
科学班や救護班の人間とは違い、エクソシストに教団を抜ける権利はない。
なおかつ、彼女にはエクソシストとしての訓練の続行が義務付けられていた。
前線に出す予定もないのに訓練をさせるとはおかしな話で、そこには教団の思惑が見え隠れしていたが、これは自身も望んだことである。
アクマを破壊する任務を与えられることはないとはいえ、日常生活でアクマに遭遇しないとは限らない。
そんなとき、最低限自分の身だけでも守れる手段がほしかった。
そしてなにより、教団が約束を違えたときに、さっさと逃げ出す力が必要だった。
あわよくば、と教団が考えているのも事実ではあったけれど、自分にとってのメリットも十分にある。
「思い当たるようなことは、なにもありません」
それでも、はすべてを話す気はなかった。
己の心の内など、口にさえ出さなければ誰も知りえない。
あの出来事だって、“思い当たること”に分類しなければいい。
この世界の理不尽さを知ったときに、守ると決めたのだ。
この身も心も、自分だけのもの。
けして誰にも渡さない。
「本当に、心当たりはないんだね?」
「ええ」
微笑んだに、コムイはそれ以上言葉を見つけられなかった。
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20081213