最果てへの片道切符





彼女の過ごしたその時間は、たとえどんなに短くとも語れば長く、せまき世界しか知らぬ人間からすればそれこそ一冊の分厚い本を読んだかのような物語であった。
「なるほど、それで今に至るというわけか」
ことの顛末を聞いた男は、苦笑いを浮かべながらそう言った。
彼女がすべてを語ったわけではないことくらい、重々承知の上だ。
彼女とて察しているのだろう。
ふたりの会話が、この場だけでは留まらないことを。
彼女から空白の一年を聞き出すのは、男に与えられた任務であった。
貧乏くじを引かされたな、と男は思う。
彼女は賢い部類の人間だ。
なにも考えていないように見せながら、彼女の言葉選びはものすごく慎重だ。
かと思えば、嘘を平気で吐いたりする。
知っていながら知らないふりなどお手の物だったし、とにかくやっかいだった。
男は己の黒のルークを、3マス前進させる。
「だって、まさか二等車両で教皇庁の人間に会うなんて思わないじゃないですか」
そうごちながら、の白いビショップが、黒のポーンを奪った。
しかしポーンを取られた男の方は堪えた様子もなく、むしろ余裕さえ見せてニヤリと笑う。
そして、ビショップが移動したことにより、守りが消えた白のナイトを奪って、言った。
「これでも、私は君が逃げ切れることをこっそり応援していたんだが。残念だな」
こそり、と声を落として伝えられた言葉に、今度はが苦笑する。
彼の言葉がけして偽りなどではないことを、は知っていた。
そしてまた、彼も自分と同じ願望を持つ人間であることも。
しかし、彼にはと違って、守るべきものがあった。
いくら逃げ出したいと願っても、彼に大切なものがある限り、それは叶わない。
教団は彼の大切なものを、彼の家族を、人質にとって彼が兵器であることを強要する。
教団にとっては、エクソシスト以外の人間など簡単に切って捨てられる存在なのだ。
だから、彼の願いは絶対に叶わない。
そうであることを理解しているから、は彼に手放しで礼を言うことはできなかったし、かといって突っぱねることもできなかった。
複雑な感情を抱いたまま、すすす、と先程のビショップを右斜め手前に引き寄せる。
「まあ、わたしに運がなかったんですよ。……チェック」
「げ」
なんでもないように会話を進めて、これまたなんでもないように黒のキングを追い詰めた白の打ち手に、黒の打ち手だけが表情を変えた。
ううむ、と眉を寄せて悩みだす。
「お互い、大変だな。……これでどうだ」
「わたしはあなたほどじゃないですよ、スーマンさん。……はい、チェックメイト」
なんとか逃げようとした黒のキングを、2つに増えていた白のクイーン(ポーンは敵陣に辿り着くと好きな役に変身できる)のうちのひとつが追い詰めた。
男、スーマンが悔しそうな顔をする。
「もう1回だ、もう1回」
「ええー、まだやるんですか?」
は露骨に嫌そうな顔をした。
今のところの3勝0敗である。
彼は素直過ぎるのだ。
すぐに作戦が読めてしまう。
正直いって、彼に勝機があるとは思えない。
しかしスーマンはそんなことなど気にせず、すでに次の勝負に向けてノリノリである。
「今日はとことん付き合ってもらうぞ」
「わたしはもう嫌です」
疲れましたよー! とじたばた騒いでいた、そのとき、

「おいコムイ! 今回もまたハズレ……」

ばんっ、と挨拶もなしに司令室に入ってきた青年は、その瞬間動きを止めた。
視線をに固定させて、目を見開く。
いつも仏頂面の青年にしては、珍しい表情だった。
しかしやがて眉を寄せて、いつも以上に険しい顔になっていく。
は思わず音がした方に向けていた視線をわずかに反らし、目を伏せた。
不自然に台詞が打ち切られて、室内に沈黙が降りる。
「あっれー? 神田君おかえりー!」
唯一空気を読めていない男が、部屋の奥からぴょこっと現れた。
神田の額に大きな青筋が浮かぶ。
ぴしり、と空気が凍った。





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20081111