降水確率0パーセント、空は快晴。
 満月が見下ろす広いテラスで、わたしはお茶会の準備をしていた。白塗りの小さな円卓のテーブルに、淡い水色のテーブルクロス。テーブルとお揃いの白いふたつの椅子には細かな装飾が施されている。食器はロイヤルコペンハーゲンで揃えて。電子ケトルにお湯を用意し、備える茶葉はモカルバリエ。昼間のうちに焼き上げたバタークッキーをお皿に並べれば、あとは主賓を待つのみ。
 約束はない。けれど必ず現れるだろう彼の人を思い浮かべて、わたしは小さな決意をした。



エヴァレットの書




今日こそ彼とキスをする。

小学校の生活にもいい加減飽きたし、なんだかコナン君には怪しまれてるし。来る日も来る日もひらがなばかりの教科書を読まされ、一桁の数字の計算をする日々に頭がおかしくなりそうだ。コナン君はよくあの生活に耐えていると思う。……そろそろ、潮時だろう。
 彼が現れるまでは確かに気合十分だったし、今日こそは! と思っていたけれど。
「こんばんは、お嬢さん」
 微笑むキッドの端正な顔を見た瞬間、その決意は揺らいだ。はう……今日も格好良いです、キッドさん。彼とキスするミッションなんて難易度が高すぎる。大体にして、恋人同士でもないのに。
 そんなわたしの葛藤をよそに、かれはひらりとテラスに降り立つと、わたしの目の前で跪いた。
「今宵も貴女は美しい。闇夜をを照らす月でさえ、貴女の前では貴女の美しさを引き立てるスポットライトにしかならない」
 言葉と共に差し出されたのは真っ赤な1輪の薔薇。きぃぃぃぃざぁぁぁぁ! その辺を道行く男が紡いだって訝しまれる台詞も、キッドが言うと様になっちゃう。ほんと、恐ろしい人だ。
 照れながらも、わたしは薔薇を受け取った。
「……綺麗。ありがとう」
 目を細めて微笑んで。かすみ草だけが控えめに飾られていたテーブルの上の背丈の低い花瓶に、もらった薔薇を加える。うん、綺麗。満足げに頷いて、わたしはくるりとキッドに振り返る。
「ね、座って。クッキーを焼いてみたの。口に合えばいいんだけど」
 赤い挿し色の加わったその空間に、わたしは彼を促した。



 会話は始終和やかに交わされた。梶岡がこんなお菓子を作ってくれたとか、お父さんが過保護すぎるとか、わたしは自分の話。キッドは自分のことはあまり話してくれなかったけれど、博識で、星座や花の話をロマンチックに語ってくれた。
 いつまでもこんなことをしている場合ではないのだけど、楽しくて。夜が明ける前になんとかしないと、と思っていた頃、ふいに会話が途切れた。しかし流れる沈黙自体に重さはない。ふわりと心地よい風が前髪を揺らして目を閉じた。
 さて。どうやって彼の唇を奪ったものか。目を閉じたまま考える。相手は怪盗。奪うことが得意なのは知っているけど、じゃあ奪われるのは?
さん?」
「ん?」
「眠いのですか?」
 どうやら目をつぶっている様子が眠そうに見えたらしい。
「んーん」
 わたしは生返事をした。眠くないよ。ただ、どうしたらいいかなあって考えていただけ。
 ストレートに自分から奪いにいく? いや、フツーに考えて無理でしょ。キッドに痴女扱いされたらわたしもうショックで生きていけない。事情を説明してキスしてもらうとか? いや、それってわたしがキッドに好きって告白したも同然じゃん。むりむりむり! 絶対むり!
 考えてから、これって自分のことばかりだな、となんとなく考えた。自分ばっかりが傷つきたくなくて、いい訳を求めてる。
 いっそ奪ってくれればいいのにと、一瞬でも考えた自分の浅はかさに嫌悪した。結局、相手のことなんてなにも考えてないんじゃないか。……自分ばかりが、幸せになりたくて。
 そんなことを考えていれば、目にじんわりと涙が浮かんできた。子どもって涙腺緩いのかな。小さな姿になってから、わたしは泣いてばっかりだ。ああ、でも、今はちゃんと高校生の姿なのに。

 ……どうしたら、このひとを傷つけずに想いを伝えられるのだろう。

 そんなことを考えていたら、ほろりと涙が頬を伝った。はっとしたけれどもう遅い。キッドが驚いた様子でこちらを見た。
さん?」
「…………!」
 慌てて下を向く。
「なんでもない! ちょっと目にゴミが……」
 言いながら袖口で涙をぬぐう。
 キッドの席を立った気配。その気配はテーブルを超えて、もともと対して距離のなかったわたしに近付いてくる。わたしは焦った。
「ご、ごめ……ほんとになんでもな、」
 慌てて涙を止めようにも一度緩んだ涙腺はなかなかいうことを聞いてくれなくて、そこまで大泣きすべきようなことでもないはずなのに、ぽろぽろと涙は止まらない。
 気がつけばキッドはわたしの真正面に立っており、片方の手をわたし左肩に添えると、もう片方の手で右手をとった。
「なんでもないはずないでしょう? 貴女の胸を痛ませてるものは、いったいなんです?」
「…………っ」
 言えない。言ったらきっと、わたしはこの人を悩ませてしまう。好意を寄せてもらっている自信は、それなりにはある。けれど、だからこそ“怪盗キッド”の姿である彼にはそれを伝えたくなかった。
「私では、貴女のその痛みを取り除くことはできませんか?」
 たたみかけるように顔を覗き込んでくるキッド。泣く私に困惑しているのがよく分かる。
「キッド……」
 その困ったように揺れる瞳を見つめて、唐突に気付いた。いずれにせよ、わたしたちは今のままでは前に進めないということに。彼が怪盗キッドとしてしかわたしの前に現れない限り、それは永遠に解決しない。だから…………だから。

「ごめん……ごめんね、好き…………」

 この想いは、どこまであなたに届いただろう。赦しを乞うように、言葉を紡いだ。
 怪盗キッドのあなただけを好きになったわけじゃないよ。たしかに、わたしはキッドとしてしかあなたに会ったことはないけれど。たまに見え隠れしていた“黒羽快斗”の片鱗だって、たまらなく愛しく感じてた。……きっと、今のわたしじゃそれ伝えきれないだろうけれど。
 はっとしたようにキッドがわたしを見つめる。わたしは微笑んでみせたけど、うまく笑えなかった。
 怪盗キッドであるあなたに、こんなことを伝えてしまってごめんなさい。けれど、これは通過点。きっと……きっと、もう一人のあなたにも伝えにいくから。どうか赦して。わたしがつけてしまった傷に今だけは知らないふりをして、慰めてほしい。
……」
 わたしを呼ぶ声が切ない。愛しくて、切なくて。それでもやっぱり愛おしさだけがこみ上げて、涙は止まることを知らなかった。
 キッドの唇がおでこに落とされる。おでこに落とされた口付けは、眉間に、瞼に。その拍子に閉じてしまった目から零れ落ちる涙を、顔にそっと添えた手の親指で拭って。
「……あ、」
 それは、ごく自然な動作だった。ほっぺたに、鼻先にと落とされた唇は、まるでその先を焦らすかのように一瞬動きを止める。そしてゆっくりと、唇が重なった。涙を流すわたしを宥めて労わるような、優しいキスだった。そのあまりの優しさにびっくりして涙が止まる。それはまるでガラス細工を扱うような繊細さで。唇の離れていく感覚にそろそろと視線を上げれば、切なげに揺れる瞳と目が合った。
「…………」
「…………」
 お互いに言葉はなく。音を発したらこの空間が夢のように消えてしまうんじゃないかと、そう思えて、わたしも沈黙を保つ。口を開かずとも、お互いの瞳はその心情を雄弁に語っていた。
 そして再び近づいてきた彼の顔に、わたしは再び目を閉じる。満月の見下ろす中、掛けられた呪いが解かれ、物語が静かに終わりを告げるのをわたしは確かに感じていた。



 朝日を一人で出迎えて、着ていた服をそのままにカーディガンを羽織る。その姿を梶岡と父には見せたことがないせいか、わたしの部屋に高校生のわたしが着られるがほとんどない。
 部屋を出て階段を下り、リビングの扉を開ければお父さんとお母さんはまだ起きていなかった。ひとり働き出していた梶岡だけがはっとわたしの気配に振り向く。
「! お嬢様、」
 梶岡には初めて見せるこの姿。けれどすぐにわたしだと気付いたようだ。彼がなにかを言いだす前に、とわたしは口を開く。
「梶岡、小学校に連絡を入れて。それと、編入手続きは江古田高校に」
 経緯についてはなにも語らないわたしに、梶岡はなにを悟っただろうか。
「…………かしこまりました」
 しかし我が家の優秀な執事は憶測も不満も言葉にはせず、ただ頷いた。



白雪姫に眠り姫。

ハッピーエンドのそのあとは?



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2011.11.13