さぁっと血の気が引いていくのが、自分でもよく分かった。ぎ、ぎ、ぎ、と壊れたロボットのような動きで振り返れば、そこには不敵な笑みを浮かべたコナン君。梶岡、なんてことしてくれたの。本気で気を失いたい。



エヴァレットの書




 部屋に充満するほのかなダージリンの香り。それに混ざる焼きたてのパウンドケーキの香りは、甘いものが好きな女の子ならば誰もがうっとりとすることだろう。遅く起きたためにブランチとなってしまったそれを、普段ならわたしも幸せな気分で頬張っていたはずだ。……そう、普段ならば。
 だが今は目の前の男の存在のせいで食欲すら湧いてこない。ほんとお願いだから帰ってくれないかなぁ。ほとんど義務的に紅茶を口に運んでから、わたしはこれ見よがしに溜息を吐いてみせた。
「はぁ……」
ちゃん、どうしたの?」
 先程までの邪悪ともいえる不敵な笑みをどこに消し去ったのか。きょとん、とまるで本当の子供のような仕草で尋ねるコナン君に、おまえの職業は手品師じゃなくて探偵だろと自分でもよく分からない突っ込みを心の中で入れる。だが、いつまでもひとり言葉遊びなぞしながら現実逃避をしている場合じゃない。コナン君には早めにお帰りいただかなくては。わたしは覚悟を決めて彼を見据えた。
「ねえ。不可侵条約を結ぼうと思うんだけど」
 そして、わたしは率直に切り出した。白旗をあげたともいう。もうだめだわこの男。その真実への探求心に勝てる気がしない。
「フカシンジョーヤク?」
 そんなの小学1年生が知ってる単語じゃないよね。ボク分かんなーい、とばかりに首を傾げたコナン君に、わたしは顔を引きつらせた。ええい、その小芝居をやめろ。
「お互い、相手に干渉……ええと、相手の秘密について探るのはやめようってことなんだけど」
 ああもう、小学生ってどんな言葉なら解るんだ? さっぱり分からない。いや、コナン君は小学生じゃないけど。高校生に戻ったら覚えておけよ。
 コナン君は口元を歪めてこちらを見ていた。
「まるで、オレにも秘密があることが前提みてーな口振りだな」
 自分の勝利を確信したような、そんな口調のコナン君。わたしは少しだけむっとした。
「あるでしょ」
 そしてそんな様子を隠さないまま、きっぱりと言い切る。その程度の揺さぶりに、このわたしが口を割るとでも思うのか。
「なんでそう言い切れる?」
 君の態度そのものが秘密の塊みたいなものでしょ。こんなえげつない小学生がどこにいる。
「コナン君がわたしに感じてる違和感を、わたしもコナン君に感じてるだけだよ」
「…………」
 なおもこちらの態勢を崩そうとするコナン君。けれど、それに怯んでいるわけにはいかない。まっすぐと視線を向けてこちらから反撃をすれば、今度こそコナン君は黙り込んだ。何かを探るようにこちらを見るコナン君に、わたしは意識的に決意を秘めたような表情作る。本当は、こんな表情を浮かべるほどの決意なんてないのだけど。
 しばらくの沈黙が続いた後、コナン君は先程よりもやや神妙な様子で口を開いた。
、オレは面白半分でおめーから聞き出そうって思ってるわけじゃないんだ」
 そんなことは知っている。彼はただの好奇心で人の秘密を暴くような人ではない。
「おめーが危険な立場にいるなら、なんとかしてやりたいと思ってる」
「……」
 ああ、真剣な眼差し。そういうの、ヒキョーっていうんだよ。コナン君、知ってる? けれど、その正義感にあふれるところは、ときとして迷惑にもなりうる。たとえそれが、真に相手を思いやったが上の行動であってもだ。
「……たぶん、コナン君が心配するようなことはなにもないと思う」
 紡いだ言葉は、どこか頼りなさ気に部屋に響いた。
「コナン君が何を恐れてここまでわたしに関わるのかは知らないし、知りたいとも思わないけど、これだけは言っておく」
 コナン君がそれほどまでに真剣になる理由も、実際のところ、わたしは知らないわけじゃない。しかし、だからこそ関わらないでほしいのだ。
「これはわたしの家の問題で、」
 言いたいことをうまく言葉にするのは難しい。まして、そこに隠さなくてはいけない事柄があるのなら尚更。
「わたしを含めて、わたしの家族や使用人を路頭に迷わせたいというのなら勝手にすればいい。でも……」
お願いだから。
「でも、そうじゃないのなら、関わらないで。わたしが抱えている秘密は、わたしだけが関わる秘密じゃないの」
 わたしの抱える秘密に、いったいどれほどの人が関わっているのだろう。お父さん、お母さんに梶岡。当時例の実験に携わっていた研究者たちに、警備員。そして、それらを指示した国。
 直接命に関わるわけではない。けれど、あまりに規模が大き過ぎる。そこにはたぶん、実年齢のわたしにでさえ理解できないだろう世界が存在するのだ。そう、わたしは本当の意味ではなにも知らないし、なにも理解していない。だから、能動的になにかと戦うことも、守ることもできはしない。
 わたしができることはただ口を閉ざし、沈黙することだけ。知らないことを聞かないで。守る術すらない者に語らせようとしないで。
「……悪い」
 コナン君は一瞬はっとしたような表情を浮かべると、それからは見れ見るうちに罰が悪そうな表情になっていった。
 少し言い過ぎたかなと思わないでもないが、彼にはこれくらい言わなくては伝わらないだろう。わたしは本日二度目の溜息をついた。今度は安堵の溜息だった。
「分かってくれたならもういいよ。わたしもコナン君にはなにも聞かない。これでいいでしょ?」
「……ああ」
 努めて明るく言うわたしに対して、コナン君はまだ暗い。あちゃー、やっぱり言い過ぎたかな? でもなぁ……。
 やれやれ、とわたしは程よい厚さに切り分けられたパウンドケーキを、フォークが用意してあるにもかかわらずお行儀悪く手で掴んだ。
「コナン君」
 視線を下に向けていたコナン君が顔を上げる。
「なん、むぐっ」
 なんだと言いかけた彼のその口に、わたしは掴んだパウンドケーキをほとんど無理やり突っ込んだ。とたんに飛んでくるコナン君のうらみがましい視線。そんな視線を華麗にスルーして、わたしは無邪気に言い放った。
「ど? 美味しい? うちの梶岡が腕によりをかけて焼いてくれたパウンドケーキなの」
 険しい表情をして口をもぐもぐと動かすコナン君。だが、その表情は口の中のそれを噛むごとに少しずつ和らいでいった。やがて口の中のパウンドケーキがなくなると、やや温くなってしまった紅茶を口に含み、ほう、と息を吐く。梶岡の入れた紅茶は温くなってもおいしい。わたしは自分の勝利を確信して微笑んだ。
「……ああ、うまい」
 答えたコナン君の表情もまた、微笑みに変わっていた。



、これだけ聞かせてくれねーか?」
「ん?」
「全身黒づくめの連中に、心当たりないか?」
「なにそれ? 新しいアニメ?」
「いや、知らないならいいんだ」
 彼もまた、全貌を知らず、大切な者を守る術さえ分からない秘密を抱えているという事実に、わたしはきっと一生触れないだろう。それが、わたしと彼の結んだ不可侵条約だから。



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2011.7.12