天馬の駈ける刻。それは時間を干支に置き換えた場合に午の真上にくる子の刻だととることができる。子の刻は午後11時から日付けを跨いで午前1時の間。日付けが変わると同時に下の階から聞こえてきた、キッドが出たぞ!
という声を聞いて、わたしは僅かに笑った。
「そろそろかぁ……」
どんな顔をして会えば良いのか分からない、というのが本音だったけれど、自分から言いだしたからには逃げるわけにもいかないだろう。ポケットの中の石の感触を確かめて、わたしは月を見上げた。
エヴァレットの書
「こんばんは、お嬢さん」
「キッド!?」
予想外の方向から掛かった声に、わたしは驚いて振り返った。てっきり今日も空からやってくるものだと思っていたのに。わたしの部屋からテラスに入ってきた怪盗は、今は警察の格好をしていた。ばっちり変装していたわけね……。ばさり、という音と同時に、その姿は一瞬でいつもの白いものになる。
「鍵かけてたのに……」
「手品師の前に、鍵など無いも同然ですよ」
小さく呟いた声を耳聡く拾ったらしい。キッドはくすりと笑った。
そうだろうけど、と少しだけ唇を尖らせながらいう。わたしの拗ねた様子に、キッドがさらに笑った。彼は笑ったままそっと片手を伸ばして、自然にわたしの髪に触れる。
「会えてよかった……」
そして、言葉と共に触っていた髪を一房掬い、毛先に口付けた。動作ひとつひとつが洗練されていて、照れるより先に見惚れてしまった。わたしの視線に気付いたキッドと目が合ったところでようやくはっとする。意味ありげに笑い掛けられて、顔に熱が集まるのを感じた。
「ず、ずいぶん派手な演出だったね……」
「お気に召していただけましたか?」
先程まで、部屋の外は騒がしかった。照れたのを誤魔化すように言葉を紡げば、キッドは茶々を入れずに話に乗ってくれる。さすが紳士。
ここまでしなくても良かったんじゃない? と聞くと、彼はにっこりと笑って口を開いた。
「ムーンストーンの効果、ご存じですか?」
聞かれて、ほんの少しだけ考える。今回の演出の理由は、そこにあるのだろうか。
「えーっと……災厄から身を守る?」
父がそういっていた気がする。
「それもありますが……」
と、キッドは言葉を切って、甘やかな表情を浮かべた。わたしは首を傾げる。
「ムーンストーンは、恋人同士の石でもあるんですよ」
「えっ」
それは、どういう意味? 測りかねてキッドを見つめると、彼もわたしを見つめていたらしく視線が絡む。瞳の奥で揺れている感情に、どきりとした。
「…………」
「…………」
しばしの、沈黙。流れる甘い空気に耐え切れなくなって視線を外す。キッドは僅かに苦笑したようだった。
「そういえば、飾ってあるのは偽物でしたね」
警察の守っていたムーンストーン。空気を変えるように、キッドが切り出す。彼は手の平にガラスでできた偽物を乗せていた。白馬君を上手く出し抜いたのだろう。とりあえず盗んできた、というわけか。
「ああ、それね……」
わたしはポケットに手を突っ込んで、本物の“月の雫”を取り出した。これでしょう? と目の前にかざせば、彼は驚いたような顔をする。
「あなたが持っていたんですか」
「だって元々わたしのものだもの」
わたしが本物を持っていることまでは知らなかったらしい。それが面白くて、ふふ、と笑った。
「見せて頂いても? ……ああ、すぐにお返しすると、二人を出会わせてくれた満月に誓いましょう」
聞いてから、繕うようにキッドは言った。わたしが怪しむかもと思ったのかもしれない。咄嗟に出てきた言葉さえ修辞されているのだから、さすがだと思う。
「どうぞ」
キッドの真の目的は知っていたので、わたしは素直にそれを渡した。彼は何気ない動作でそれを月にかざす。少しだけ切なげな表情が浮かんだのを、わたしは見なかったことにした。まだ、理由を聞けるほどの位置にはいないから。
「ありがとうございます」
そう言ってわたしに石を返す彼の表情に先程のような憂いはもう見られない。わたしは少しだけ微笑んでそれを受け取り、ポケットにしまい直した。