物心つく頃から、わたしは母とたった2人で暮らしていた。正確には“記憶がある頃から”と言った方がいいのかもしれない。わたしには小学校に入学する以前の記憶が全く無かった。そう、父の記憶さえも。父は死んでしまったのだと、ただ母からそう聞いていた。何かがおかしいと、思っていないわけではなかった。いないのは、父だけではなかったから。父方の祖父母、母方の祖父母にさえ、わたしは会ったことが無かった。一体、何故なのか。年齢を重ねるごとに、その疑問は大きくなっていったけど、わたしがその疑問を母に聞くことは結局一度も無かった。一生、聞くことも、知ることもないだろうと思っていた。……今日までは。



エヴァレットの書




「まず最初に、申し上げなければならないことがあります」
「は、はい。なんでしょう」
 この屋敷の中には立派なテーブルも椅子もあるというのに、わたしとこの屋敷の執事だという梶岡は正座した状態で向かい合っていた。なんとなく、空気が重い。
 梶岡が、静かに息を吸った。そして意を決したように口を開く。
様。落ち着いてお聞きになってくださいね。ここは、貴方にとっては異世界です。…いや、いままで異世界にいたという方が正しいのでしょうね」
「……は? 異世界、ですか?」
 なんて非現実的な。何を言われるかと思えば……。わたしは梶岡という執事の言葉に、たっぷり10秒は固まった。一体、何がどうなっているというのだ。そういった意味を込めて梶岡を見つめれば、彼は少し寂しげな表情を浮かべた。
「話は、10年前まで遡らなければなりません」
 静かに、それでいてはっきりと、梶岡は語りだした。



 当時、夫婦は世界的にも有名な科学者だった。その頃、夫婦が研究していたのは、“平行世界”について。これは国から依頼された研究で、研究している夫婦と執事の梶岡、一部のお偉いさんを除けば、この事実を知っているものは誰もいなかった。
 研究は順調に進み、ついに夫婦は1台の“次元移動装置”の試作品を完成させた。この世に存在すると思われる、平行世界を自由に行き来するための装置。あくまで試作品であって、完成品ではない、不完全なもの。依頼した国側は、試作品の完成を大変喜んだ。そして試作品でも構わないから、実際目の前で動かしてみて欲しいと国側は頼んだ。夫婦は最初、その依頼を断った。まだ危険な要素がたくさん残っている。たくさんのお偉いさん方の前でそんな恐ろしいことはできない、と。しかし国側は粘り強かった。最終的に、夫婦は“次元移動装置”の公開実験を承諾させられることになった。
 当日実験に使ったのは、小型カメラをつけた一匹のマウス。上手くいけば、そのマウスが異世界へと旅立ち、その体につけた小型カメラでその様子を写してくる。前日に夫婦が行った実験は成功していたから、夫婦はすっかり安心していた。その日の実験も、当然成功するものだと思われた。
 が、実験当日。事件は起こった。前日の実験で力を使い果たしたのか、“次元移動装置”が実験中に暴走しだしたのだ。それは夫人と、当日実験会場につれて来ていたその夫婦の娘を巻き込んだ。実験に使われるはずのマウスが消えることは無く、その場から消え去ったのは夫人とその娘だった。その後数ヶ月に渡って、2人の捜査が極秘に行われたが、婦人と娘が見つけられることは結局無かった。
 氏は、愛しい妻とまだ幼い娘の消失を酷く嘆き悲しんだ。事情を知っている人間達は、彼が自殺するのではないかとまで心配した。しかし、彼の精神力は計り知れないものだった。彼はすぐに立ち直り、嘆き悲しんでいるより妻と娘を取り戻す方法を見つけなければと立ち上がった。「妻と娘は“次元移動装置”によって異世界に飛ばされたのだ。連れ戻す方法はきっとある」と。その説に確証は無かったが、そんな彼を見て、国側もできる限り協力すると約束した。夫婦が作った“次元移動装置”は、暴走したことによって完全に壊れてしまっていたから、氏は全て1からやり直さねばならなかった。
 毎日毎日、彼は寝る間も惜しんで研究を続けた。そのせいで、倒れた日さえもあった、それでも根気よく、氏は国の協力を得ながら研究を進めた。そしてある日ついに、氏は妻と娘を取り戻す方法を見つけたのだ。気がつけば、事故のあった日から10年の時が流れていた。これが成功しなければ、妻と娘を取り戻す方法はもう無かった。例え成功したとしても、妻や娘は自分を恨んでいるのではないかと恐ろしかった。それでも、彼は実行したのだ。自分の研究によって見つけ出した、その方法を。



「そしてついに、貴方と奥様が帰ってこられたのです。旦那様の研究は、成功しました」
 あまりのことに、わたしは口をあんぐりと開けて固まった。本当に、そんなことが現実的に起こりうるというのか。
「ちょ、ちょっと待って! じゃあわたしが小さくなっちゃったのはなんで!?」
 はっと気付いて、わたしは口を開いた。そう、異世界を行き来したのは今ので説明できるとしても、小さくなってしまった理由が分らない。
「おそらく、この世界からいなくなったときの姿がちょうどその位だったからでしょう。あなたはこの世界のものを取り込んで成長したわけではない。だから次元を移動する際にちょっとした誤差が生じてしまったのかと……。でもご安心下さい。きっかけさえあれば、すぐに元に戻れるだろうと旦那様はおっしゃられてました」
「き、きっかけさえあれば……?」
 わたしの父親とやらはわたしが小さくなってしまったことを既に知っているのか。てゆうかもしそのきっかけが訪れなかったらどうするの? わたしは急激に不安になった。
「きっと、なんとかなります」
 そんなわたしの心の中とは対照的に、梶岡がにこりと微笑む。ああ、わたしこれからどうなるんだろう……。自分の幸先が、益々不安になった。



「……そういえばわたしのお父さんとやらは? あとさっきの話だとお母さんもこっちに来てるんだよね?」
 自分の父親とやらには一応会っておきたい。母もこちらの世界に来たというが、母もわたしと同様に若返っているのだろうか。
「ああ……旦那様と奥様なら今はお楽しみ中です」
「!?」
 なんですと!? 遠い目で言った梶岡を、わたしはおもわずぎょっと見返した。
「事故が起こる前からバカ夫婦でしたからね。きっと明日になるまであの2人にはお目にかかれないでしょう」
自分の主人のことをさらりと“バカ夫婦”とよぶ執事。
おそらく、あまり主従関係の上下が無いのだろう。彼らの親しさが伺えた。
「さ。様。お疲れになったでしょう。お部屋まで案内します」
「え、あ、うん」
 ゆっくりと歩き出した梶岡の後に、わたしは続いた。
 突然変わってしまった世界に、小さくなった体。考えなければならないことはたくさんあるけれど、梶岡の言うとおり、わたしは疲れきっていた。
(とりあえず、明日になったらまた考えよう)



 記憶が無かったはずの、幼い頃の夢を見た気がした。



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2006.5.21