なんてこと無い日だった。いつも通りの、塾からの帰り道。「来年は受験生なんだ。大学受験の場合、受験生になってから焦ってももう遅い。今のうちからちゃんと勉強しておけよー」という塾の先生の言葉を思い出しながら、何と無しに夜空を仰ぐ。
(分ってはいるけど、ねぇ……?)
空には綺麗な三日月が浮かんでいた。じっと見つめていると、そこだけが切り取られているんじゃないかという感じさえしてくる。軽く首を横に振って再び月を見た、次の瞬間。
(…………あれ?)
月が嗤ったような気がした。それはまるで人の口のように。呑み込まれるような感覚を覚えて、わたしは少しぐらついた。眩暈がする。気がつくと、わたしはその場に尻餅をついて座り込んでいた。
エヴァレットの書
「びっ、くりしたー……」
貧血かな? 今まではこんなことなかったのに。フフン、わたしも意外とか弱い女の子なのね、なんて場違いなことを思いながらわたしは立ち上がる。ぱんぱんっ、と服の砂埃を払いながら、わたしはふと違和感を感じた。
「ん?」
辺りを見渡すと、先程より周りの建物が高く感じる。気のせいかな? と首をかしげて、歩き出そうとしたとき、わたしはその違和感が間違っていなかったことに気付いた。ずるずると引きずられるスカート。ウエストも緩い。……着ている服が、大きい。あきらかにサイズが合っていない。まさか…と思い、恐る恐る自分の手を見た。
「……ち、小さい…………」
思わず声に出して、小さく呟く。はっとして自分の胸に手を当ててみた。……まな板だ。や、元々そんな大きいほうでは無かったけど! 真っ平らなんてことは!
慌てて持っていた鞄から手鏡を取り出した。ぎこちない手つきでそれを開き、そぉっと鏡を覗き込む。
「…………!!」
パタン! と思いっきり鏡を閉じた。……見なきゃよかった。
自分の年齢よりもずっと幼いだろう少女の顔が、鏡の向こうから見つめ返していた。周りには、わたし以外に人なんていない。どう間違っても、鏡に映っていたのは自分自身でしかありえなかった。ちょ、ちょっと待て。落ち着け自分。……ありえない。夢だ。これはきっと夢なんだ。もしくは幻覚。
身体が縮むなんて、そんな。
(コナンじゃあるまいし)
寧ろコナンの読み過ぎか。ぎゅっと自分の頬をつねってみる。い、痛い! ってことは、夢じゃない? そこまで考えて、わたしはぞっとした。どうしよう、と辺りをキョロキョロ見渡す。辺りに誰もいないのは、ある意味ラッキーだったかもしれない。
暫くどうするべきか考え込んで、わたしはとりあえず自宅に向かうことにした。信じてもらえるにしろもらえないにしろ、誰かに話さなければ話は進まない。幸いなことに、わたしの家はすぐそこの角を曲がったところだ。いつもよりずっと遅いペースで、わたしは自宅への道のりをのろのろ歩き出す。そして、家の前まで来て、わたしは再び愕然とした。
「家が、無い…………!?」
正確に言えば、“家はあるけど自分の家ではない”だ。わたしの家は、どこにでもあるような普通の一軒家。
しかし目の前にあるのは、とても大きい、どう見てもお金持ちのお屋敷にしか見えなかった。となり近所の家もごっそり無くなっている。
「…………ありえない」
しかし、自宅までの道のりを間違えるはずも無く、わたしはその場に立ち尽くす。
「どうしよう……」
わたしが再び考えた、その時だった。
「お嬢様っ!!」
叫び声と共に、1人の男が屋敷から飛び出てきた。
(おじょう、さま……?)
わたしのことでは無いな。そう考えてから、わたしははっとして身を翻した。男は“この屋敷の”お嬢様を探しているのだ。しかしわたしはこのお屋敷のお嬢様なんかじゃない。下手に捕まったりしたら、やっかいなことになる。そう思ったが、なんせわたしは身体が縮んでしまっているし、相手は大人、しかも男だ。あっという間に追いつかれて、抱きかかえられる。
「お嬢様! ああ、ご無事で何よりです」
男はふぅと息をついてわたしを丁寧に持ち直した。や、やばい。このままじゃ厄介事は避けられない。何とか逃げようとしてじたばたと暴れると、男は静かな声で「落ち着いて下さい」と言った。こんな状況で落ちついてられるかっての! なおも暴れ続けていると、男は再び口を開いた。
「大丈夫です。私が探していたのはあなたで間違いありません。様。なんでこんなことになったか、知りたくはありませんか?」
その言葉に、わたしはぴたりと動きを止める。
(なんでこんなことになったか? それに、わたしの名前……。もしかしてこの人、何か知ってる……?)
思わず眉を寄せて男を見ると、彼はわたしを静かに道路へと下ろし、恭しく一礼した。
「私はこの屋敷、家の執事をしております、梶岡(かじおか)と申します。様に旦那様から託を預かっております。立ち話も何ですので、どうぞ屋敷へとお入り下さい」
そして私のことは梶岡とでもお呼び下さいと付け足す。わたしはその言葉に、唖然とした。そう。“”は確かにわたしの名前だ。しかし、お嬢様なんて呼ばれる覚えが無い。それに、父は……。
なんとなく恐ろしくなって、わたしは頭をぶんぶんと左右に振った。とりあえず、この人の話を聞いてみるしかない。どちらにせよ、他に頼る人間のいなかったわたしは、素直に屋敷の中に招き入れられることにした。