少年探偵団のみんながそれぞれ家に帰って、コナン君にもあれ以上問い詰められることはなくて。……それで、すっかり失念していた。
「……おや?」
 テラスで月を眺めていたわたしは、聞こえてきた声にがちりと固まった。声のした方に目を向ければ、夜風にはためく白いマント。
「……っ!!」
 とっさに彼に背を向けて、自分の部屋に駆け込んだ。がらがらばったん! 思い切り窓を閉めて、カーテンを引く。
「お嬢さん?」
 ガラス越しに聞こえたキッドの戸惑うような声に、わたしは泣き出しそうになった。



エヴァレットの書




 そうだ。このひとが尋ねてくる夜が、必ずしも満月の日とは限らなかったんだ。なんでそのことを忘れていたんだろう。自分の迂闊さが嫌になる。
 彼は今、ひどく戸惑っているに違いない。あの日、元の高校2年生の姿だったわたし。けれど、今日のわたしは小さい。しかも、わたしはこちらの方の姿でも2度ほどキッドに会っているのだ。
 破れてしまうかもしれない、なんていうことは考えずにカーテンづたいにずるずると座りこんで、わたしは膝を抱えた。
「お嬢さん、ここを開けてはいただけませんか?」
「い、いやだ」
 キッドは白い手袋をはめた手で軽く窓を叩くけれど、わたしは拒否する。
 この場所で、この姿。顔なんて合わせられるはずがない。うっすらと、涙が浮かんでくる。声も涙声になってしまった。
「どうか、姿を見せて下さい……」
「むっ、むり……!」
 切なそうな、色っぽいような声で囁かれて、心が動かないわけではないが、こればかりはどうしようもない。もう既に姿を見られてしまったのだから無意味にも思える。聡い彼のことだから、気付いたはずだ。あの日のわたしと、今日のわたしが同一人物だと。けれど、どうしても抵抗せずにはいられなくて。
「こんな姿、この場所であなたに見られたくなかった……」
 呟けば、窓越しにキッドの息を呑む気配が伝わってくる。
 ぽろぽろと、涙がこぼれた。なんで、こんなに悲しいのだろう。この秘密を知られてしまうことで焦りや恐怖を感じてしまうことはあるかもしれないけれど、悲しむべきものではない。真の理由に気付けないほど鈍感ではなくて、わたしはさらに悲しくなった。こんな気持ち、いつの間に彼に抱いていたのだろう。確かにキッドは格好良い。けれど、そんな対象として彼を追い掛けていたはずではなかったのに。
「あなた、だったんですね……」
 あの日、杯戸シティホテルにいたのも。鈴木財閥の船上パーティーで、上着を返してくれたのも。
 その言葉に、キッドがどんな気持ちを込めたのかは知らない。ただ、ひどく優しげな声に、わたしはなんと返したらいいか分からなくて、膝を抱える腕に力を入れた。
「顔を、見せてはいただけませんか……」
 再び紡がれた彼の言葉に、わたしは首を振る。声は発しなかったけれど、彼は雰囲気で感じ取ってくれたようだった。
「ひとつだけ、伺ってもよろしいですか?」
「…………」
 わたしが返事をしなかったにも拘らず、彼は続けた。
「どちらが、あなたの真の姿です?」
 確かにものを尋ねる口調だったが、キッドは既に確信しているようだった。当たり前といえば当たり前だ。わたしの話し方も、立ち振る舞いも、この状況で涙を流す様子も、小学生のそれではない。だからわたしは、重たい口を開く。
「あなたと初めて会った日の姿が、」
 本当の、姿。みなまで口にすることはなく、そう伝える。彼は、静かに息を吐いた。
「いつなら。……いつなら、私と会っていただけますか」
「……え?」
 また、会いにきてくれるつもりでいるの? わたしは、こんな姿なのに?
 思いがけないキッドの言葉に、彼が聞いて良いかと尋ねた質問はひとつだけだったということが頭から飛ぶ。
「私は、あなたの姿にだけ心を惹かれて逢瀬に来たわけではありませんよ」
 まるでわたしの心を読んだような台詞にどきりとした。逢瀬なんて恥ずかしい言葉を使ってしまえるのが、流石キッドだ。けれど、その言葉になんとなく心が軽くなる。
「……満月の、夜なら」
 気が付いたらわたしはそう答えていて、涙もいつの間にか止まっていた。
 1枚のガラスを隔てた向こう側で、キッドが穏やかに笑うのを感じた。



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2007.12.7