!」
「げっ」
やめておけばいいのに振り返って、は顔を引きつらせた。
思ったより早く、白馬はの逃亡に気付いたらしい。
の現在位置は喫茶店の店先から30メートル。
白馬はかつて、怪盗キッドを捕まえるという名目で全国の高校生の詳細なデータを手に入れている。
そのデータには当然のものも含まれていた。
白馬はキッド捜査とは関係なく覚えた彼女のデータから50メートル走のタイムを思い出し、自分のそれと照らし合わせながら、にっ、と口の端を持ち上げた。

逃げられれば追いたくなるのは本能だと思う。
この僕から逃げられると思うなよ、





甘い混乱





すぐに追い付ける、白馬はそう思っていた。
だが、彼女の目の前には点滅する青の歩行者信号。
自分と彼女の距離は約10メートル。
彼女はあの信号を渡ることができるだろうが、自分は間に合わないだろう。
白馬の誤算は、ここが学校のグラウンドではなく、道路のある街中であることだった。
しかし、それはまたにとっても誤算となる要因だった。
(ピンヒールなんて履いてくるんじゃなかった……!)
ついこの間あった夏のバーゲンで買った、踵の高いピンヒールのサンダル。
自分好みのデザインと色のため迷わず購入したが、如何履き慣れていないため、歩きにくい。
ましてや走ることなんてそう易々とできるはずかなかった。
だがここは女の意地。
青い歩行者信号がチカチカと点滅している横断歩道を颯爽と走り抜けて、後ろを向く。
の期待通り、赤に切り替わった信号は、白馬から逃げるを手助けしてくれた。
だが、ほっとしたのも束の間。安堵しながら次の足を踏み出した瞬間、

――ぐきっ

「いっ!?」

――びったーん!

は派手に転んだ。
!?」
横断歩道の向こう側から、慌てたような白馬の声。
転ぶとき、はとっさに手をついたが、完全には身を守り切れなかったようで、手のひらと膝に擦り傷を作った。
倒れこんだ拍子に投げ出された、現在の自分の唯一の持ち物である財布を、転んだ体制のまま手を伸ばして掴んで、は思わず涙ぐんだ。
(なんか、不様だ)
いったい自分はなにをやっているのだろう。
こんなに離れているのに、探の心配する気配が伝わってくる。
けれど、再び彼のほうを振り向くことはできなくて。
は手足の痛みをこらえながら、むくりと起き上がった。
財布をスカートのポケットに突っ込んで、履いていたサンダルを乱暴に脱ぐ。
そして立ち上がると、はサンダルを握り締めて、一目散に駆け出した。
!」
彼の声なんて、聞こえない。





――じゃぁぁああ……

「…………」
小さな公園の蛇口で、は膝の傷口に付いた砂を洗い流していた。
本当はまっすぐ家に帰るつもりだった。
けれど、もしも白馬が家まで追い掛けてきた場合、は逃げ場を失う。
そして、今日の彼ならば、間違いなくそうするだろうことが想像できた。
「はぁ、ほんとなにやってんだろ、私」
溜息を吐きながら、そう呟く。独り言のつもりだった。
しかし、
「まったくだよ」
「!?」
その独り言だったはずの言葉に返事が返ってきて、はぎょっとして振り返った。
「さ……!」
彼の名前を紡ごうと口を開いたが、それは完全な言葉にはならず、彼女の口の中で消える。
なんでここにいるの! 完全に撒いたはずなのに。
思ったが、その答えをは知っていた。
それは彼が探偵だからだ。
もう何度も、はそんな体験をしている。
もうやだ、どうして私の人生ってこんななの!?
自分のことを分かってくれるひとがいるというのは嬉しくもある。
けれど、今はそれがなんだか苦しかった。
立ち尽くすをよそに、白馬は蛇口を捻って、流しっぱなしになっていた水道を止めた。
そして、の手を掴んで歩き出す。
もはや抵抗することを忘れたは、白馬に促されるままに公園内のベンチに座らされた。
そして、白馬はその前に跪くと、の裸足の脚をそっと掴み、膝の傷を眺めて、痛まし気な顔をした。
「ごめんね、
「え?」
突然の謝罪の意味が分からず、驚いた顔をするに白馬は苦笑する。
「焦って、を追い詰めてしまったみたいだ」
「っ、そんなこと!」
言い掛けて、止まる。
そんなことない、とは言いきれなかった。
ただ、彼のことを考えるだけでドキドキして、切なくて、泣きそうにすらなる。
この自分の気持ちの名前すら分からないほど、鈍い人間なわけじゃない。
けれど、今は自分の気持ちに気付いただけでいっぱいいっぱいで。

いつの間にか、白馬はどこからかハンカチを取り出して、の膝の傷口に巻き付けていた。
「ちょっと、汚れるって!」
「洗濯はちゃんとしてあるし、まだ使ってないハンカチだけど?」
「そうじゃないってば。分かってて言ってるでしょ」
むっとした様子で言うに、白馬はくすりと笑った。
仕方ない、今はまだこのままでもいいか。
どうやら、彼女自身も自分への気持ちに気付き始めたようだから。
その代わり、容赦はしない。
愛しんで、甘やかして、焦らして。
彼女が自分を求めずにはいられないようにしてみせようじゃないか。

できるだけ甘い声で、白馬はの名前を呼ぶ。
「………なに?」
「家まで送っていくよ」
そう言って、ハンカチ越しに膝の傷口に口付けられて。
「!」
しかも彼の唇の形を感じてしまったものだから、はどうしても体温が上昇するのを止められなかった。
「……あつい」
照りつける日差しと、己自身から発せられる熱に、頭がくらくらした。





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20090829