国の最北端の地、ゴンドアの谷。果てしなく広がる青い空の下、一年中雪を被った峻険な山々が延々と続いていた。産業革命の波さえもこの地までは及ばない。氷河が抉り取った窪地に人々はへばりつくようにして暮らしている。古い石造りの家に住み、氷河が残した石を縫うようにジャガイモを植え、寒さに強い家畜を飼い、長い冬はわずかばかりの蓄えで、ひたすら耐えるような生活。けして裕福といえる生活ではない。しかし、その地に暮らすや妹のシータにとって、それらはかけがえのない日常だった。



たゆたえど沈まず




 その日は朝から、はなんとなく嫌な予感を覚えていた。なにが、と問われたらはっきりと答える自信はない。けれど、彼女は自分の勘があまり外れないことを経験から知っていた。だからは階段の上り下りにも、山羊の散歩にも、料理をするのにも細心の注意を払った。神経をすり減らした甲斐があったのか、その日は何事もなく終わる……かのように思われた。異変が起こったのは夜になってのこと。姉妹二人での夕食を終え、が風呂の準備を、妹のシータが食事の後片付けをしているときのことだった。
 ふいに不審な気配を感じて、はお風呂を洗うために屈んでいた状態から立ち上がる。が妹がいるはずの部屋の方に意識を向けたのと、シータの小さな悲鳴が家の中に響いたのはほぼ同時だった。は嫌な予感が当たったのを理解した。風呂を洗っていたたわしを握ったまま、悲鳴の聞こえた部屋へと走る。
「シータ!」
 部屋の扉を空け、妹の名前を叫ぶ。少し口を開けたまま呆然と立ち尽くすシータの前に、黒眼鏡をかけた私服の怪しい男が立っていた。その男に向かって、は咄嗟に握っていたたわしを投げつけた。たわしは男の肩のあたりに命中したものの、たわし程度で大した打撃を与えられるはずもなく、ただ小さな鈍い音をたてて床に落ちる。男は肩にできた水の染みを見遣ってから、その視線をの方に向けた。
「ああ、君がだね」
 ぞっとするような甘い猫なで声だった。
「ね、姉さん……」
 動揺のためか震えた声でを呼ぶシータを僅かに押し退けて、男はの目の前まで歩いてくる。シータから取り上げたのだろう、男の手にはこの家で使われている金の輪のついたランプが握られていた。
「私はムスカ。政府の調査機関の者だ。、君も我々に協力してくれるね」
 まるで既にシータが"協力"することを了承したかのような口ぶりである。がシータの方に視線を向けると、シータは首をブンブンと左右に振った。当然である。姉妹二人しか住んでいない家に、それもこんな時間に黙って入り込む人間が、まっとうであるはずがない。いったいどんな"協力"をさせられるというのか。
 言葉遣いは優しいが有無を言わせぬ強圧的態度のムスカを、は静かに見上げた。
「申し訳ありません。今夜はもう遅いですし、明日出直していただけませんか」
「すまないね、急いでいるんだ。……さあ、行こう。着換えは着いたところに用意してあるよ」
 なにがなんでも今、とシータを連れ出したいらしい。本当に連れて行かれそうだ、という恐怖に、は一歩後ずさった。
「わたし、となりのおばさんに言ってくる!」
 同じように恐怖を抱いたシータが家の外に飛び出した。助けを呼ぶつもりだろう。しかしムスカは追おうとしない。は表情を曇らせた。家の中に、とムスカの二人だけが取り残される。
「……目的はなに」
 の質問にムスカは答えない。彼女を無視したまま、ムスカはゆっくりと、しかしなんの躊躇いもなく彼女の横を通り過ぎ、まっすぐ暖炉へと向かった。そして暖炉のレンガに手を掛ける。彼がレンガの奥から小さな木箱を取り出したとき、ははっとした。それと同時に、ムスカの目的を理解した。
「っ、それは!」
 抗議をしようと口を開いたと同時に、ムスカの仲間だと思われる男たちがシータを連れて入ってきた。
「シータ!」
 はシータに駆け寄ろうとしたが、素早く距離を詰めたムスカに腕を取られ止められる。シータを拘束している男の1人が、口を開いた。
「ムスカ殿、もう諦めたとみえ、大人しくなりました」
 大人しくなったんじゃなくて、大人しくさせたんでしょ! 自分の腕を掴んでいる手をはなんとか振り解こうとするが、ムスカの手はびくともしない。
「そうか、やっと政府に協力する気になってくれましたか。では、お嬢さん方、参りましょうか」
 ムスカが片手に持っていた木箱をポケットに入れようとしたとき、それに気付いたシータが暴れだした。
「その箱……! 返して!」
 二人の男に両腕を取られ、苦しそうにシータはもがいた。
「それは、だれにも見せちゃいけないって……だれにも渡しちゃいけないって……!」
「…………」
 叫ぶ妹を前に、は無言でムスカを睨み上げた。それはもうこの世にはいない母からの言いつけ。けれど、どうしてそれを誰にも見せてはいけないのか、渡してはいけないのか、その理由までをシータは知らないだろう。ムスカという男は、どこでその木箱の中身のことを知ったのか。
「だから、私が大事に預かっておくんだよ。さぁ、行くぞ」
 頭上でムスカの鋭い声が聞こえたかと思うと、次の瞬間とシータは引きづられるようにして家を出ていた。男たちは足早に歩き出す。そのとき、シータが口を開いた。
「お願い、家畜小屋を開けさせて。放しておかないと……」
 放しておかないと、ヤクや山羊たちが死んでしまう。シータはそう言いたかったのだろう。黙って聞いていたムスカの部下が、ムスカの命令を受ける前に小屋の扉を開けにいった。
「甘いな」
 冷笑を浮かべ、ムスカが呟く。そんな彼の様子には鳥肌が立った。思わず眉を寄せたに気付いたムスカが、の眉間を軽く指で撫で、胡散臭く無言で微笑んだ。
 しばらくして、暗い谷にヤクの鳴き声が響いた。
「ありがとう」
 追いついてきた男に、シータは律儀に礼を言う。男の表情は既に冷たいものに戻っていた。
 とシータを乗せた車が発進する。
 はなんとなく、もうここには戻ってこれないかもしれないと感じていた。車はいったいどこへと向かっているのだろう。ムスカという男は何者なのだろう。これから自分たちはどうなるのか。ぐるぐると渦巻く不安を心の奥に押し込めて、は静かに目を瞑る。せめて姉である自分は冷静でいなければ。たったひとりの家族を守れるように。

「さようなら」
 車の窓から谷を振り返ったシータが小さく呟く声がの耳に届いた。



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2013.12.15